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	<title>戦略コミュニケーションブログ</title>
	
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	<pubDate>Tue, 23 Mar 2010 13:12:05 +0000</pubDate>
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		<title>信長の破壊の流儀 - 第14回 ステークホルダーの意識改革、天下統一の道筋をつくる</title>
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		<comments>http://www.fleishman.co.jp/sc/sc_blog/2010/03/23/%e4%bf%a1%e9%95%b7%e3%81%ae%e7%a0%b4%e5%a3%8a%e3%81%ae%e6%b5%81%e5%84%80-%e7%ac%ac14%e5%9b%9e-%e3%82%b9%e3%83%86%e3%83%bc%e3%82%af%e3%83%9b%e3%83%ab%e3%83%80%e3%83%bc%e3%81%ae%e6%84%8f%e8%ad%98/#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 23 Mar 2010 13:10:41 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[シリーズ最終回は今まで幾度も書いてきたことだが、信長のなし得た人の意識の変革について改めて語り、しめくくりとしたい。
織田信長は1582年京都本能寺の変によって天下統一の志半ばで倒れる。天下統一の実現の途上半ばで、信長は倒れたが、天下統一の道筋はしっかりと作ることに成功したと言える。
信長は、中世から近世を飛び越して近代まで持っていく程の勢いであったが、信長が発想した新たな“革新”の方向性は、その後、穏便ながらも後継者である豊臣秀吉と徳川家康に引き継がれ、江戸時代約300年という世界史上でも珍しい天下泰平の世を実現させる。
秀吉や家康は、信長ほどに大胆ではなかったが、これらの信長が発想した様々な“革新”の考え方をより精緻化し、大規模に展開した。それによって、中世に幕を引き、日本社会は近世へ足を踏み入れることになった。
信長の最大の功績は中世の意識を“破壊”、近世の意識を“革新”したことである。変化を嫌う人々の意識を徹底的に“破壊”した。その上に秀吉も家康も新しい意識を積み上げることができた。
信長は日本史上、限られた時間で、最も多くの人々に意識を変えたリーダーである。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>シリーズ最終回は今まで幾度も書いてきたことだが、信長のなし得た人の意識の変革について改めて語り、しめくくりとしたい。</p>
<p>織田信長は1582年京都本能寺の変によって天下統一の志半ばで倒れる。天下統一の実現の途上半ばで、信長は倒れたが、天下統一の道筋はしっかりと作ることに成功したと言える。</p>
<p>信長は、中世から近世を飛び越して近代まで持っていく程の勢いであったが、信長が発想した新たな“革新”の方向性は、その後、穏便ながらも後継者である豊臣秀吉と徳川家康に引き継がれ、江戸時代約300年という世界史上でも珍しい天下泰平の世を実現させる。</p>
<p>秀吉や家康は、信長ほどに大胆ではなかったが、これらの信長が発想した様々な“革新”の考え方をより精緻化し、大規模に展開した。それによって、中世に幕を引き、日本社会は近世へ足を踏み入れることになった。</p>
<p>信長の最大の功績は中世の意識を“破壊”、近世の意識を“革新”したことである。変化を嫌う人々の意識を徹底的に“破壊”した。その上に秀吉も家康も新しい意識を積み上げることができた。</p>
<p>信長は日本史上、限られた時間で、最も多くの人々に意識を変えたリーダーである。</p>
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		<title>信長の破壊の流儀 - 第13回 家臣団の意識を「一所懸命」から「一生懸命」へ</title>
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		<pubDate>Thu, 18 Mar 2010 11:52:02 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[信長は、家臣団の意識を「一所懸命」から「一生懸命」に変革した。
鎌倉、室町期の武士は「土地」への執着が強かった。もともと武士の発祥は土地の開拓開墾者である。彼らは自らが開拓、開墾した「土地」を懸命に守ることを本領とする。「一所懸命」である。そして、その「土地」を保護してくれる者に対して忠誠を誓う。
「一生懸命」は、「土地」を媒介とせず、直接忠誠を誓うことである。信長が天下布武に邁進できたのは、彼の家臣団が、信長に対する直接の忠誠、つまり「一生懸命」の意識を、他の戦国大名の家臣団よりも持っていたことによる。
信長は、この「一生懸命」の意識作りのため、上述したような施策も含め様々な工夫を実施してきたが、信長の直接支配の強化を最も支えていたのが、信長が育てた官僚集団である。彼らの信長との主従関係は「服従」を旨とし、まさに、「一所懸命」ではなく、「一生懸命」に信長に仕えた集団であった。その母体は、信長の近習団である。
彼らは、小姓衆、馬廻り衆、右筆、同朋衆、奉行衆などと呼ばれ、信長の指示のもと様々な業務をこなす機能集団であった。
他の戦国大名たちも、小姓衆、馬廻り衆など「服従」をベースとした主従関係の結びつきを持った者たちを周りに置いていたが、その人数規模は小さく、信長ほど大規模な近習組織を編成していなかった。
信長の近習団は当時、最も機能化され、組織化された集団であった。信長は出自の関係なく、能力のある者を積極的に採用、政治、経済、軍事、文化など様々な分野で、信長の目、耳、手足となって多くの施策を遂行させた。また、彼らには信長個人に対する忠誠だけではなく、信長の描くビジョンや新しい国家観への忠誠が求められた。この近習集団が信長の天下布武というビジョン実現の先兵となる。
次回はこのシリーズとしての最終回、信長が残した天下統一への道筋について説明したい。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>信長は、家臣団の意識を「一所懸命」から「一生懸命」に変革した。</p>
<p>鎌倉、室町期の武士は「土地」への執着が強かった。もともと武士の発祥は土地の開拓開墾者である。彼らは自らが開拓、開墾した「土地」を懸命に守ることを本領とする。「一所懸命」である。そして、その「土地」を保護してくれる者に対して忠誠を誓う。</p>
<p>「一生懸命」は、「土地」を媒介とせず、直接忠誠を誓うことである。信長が天下布武に邁進できたのは、彼の家臣団が、信長に対する直接の忠誠、つまり「一生懸命」の意識を、他の戦国大名の家臣団よりも持っていたことによる。</p>
<p>信長は、この「一生懸命」の意識作りのため、上述したような施策も含め様々な工夫を実施してきたが、信長の直接支配の強化を最も支えていたのが、信長が育てた官僚集団である。彼らの信長との主従関係は「服従」を旨とし、まさに、「一所懸命」ではなく、「一生懸命」に信長に仕えた集団であった。その母体は、信長の近習団である。</p>
<p>彼らは、小姓衆、馬廻り衆、右筆、同朋衆、奉行衆などと呼ばれ、信長の指示のもと様々な業務をこなす機能集団であった。</p>
<p>他の戦国大名たちも、小姓衆、馬廻り衆など「服従」をベースとした主従関係の結びつきを持った者たちを周りに置いていたが、その人数規模は小さく、信長ほど大規模な近習組織を編成していなかった。</p>
<p>信長の近習団は当時、最も機能化され、組織化された集団であった。信長は出自の関係なく、能力のある者を積極的に採用、政治、経済、軍事、文化など様々な分野で、信長の目、耳、手足となって多くの施策を遂行させた。また、彼らには信長個人に対する忠誠だけではなく、信長の描くビジョンや新しい国家観への忠誠が求められた。この近習集団が信長の天下布武というビジョン実現の先兵となる。</p>
<p>次回はこのシリーズとしての最終回、信長が残した天下統一への道筋について説明したい。</p>
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		<title>信長の破壊の流儀 - 第12回 信長、家臣団の意識と戦う</title>
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		<pubDate>Mon, 15 Mar 2010 11:31:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.fleishman.co.jp/sc/sc_blog/?p=504</guid>
		<description><![CDATA[その中で、信長がいち早く、戦国大名が持つこの支配の脆弱性を克服、天下布武という自らのビジョン実現に向けて家臣団を動かした。
1567年9月に信長は美濃の斎藤氏が居城とする稲葉山城を落城させ、美濃攻略を果す。その翌年8月には、足利義昭を奉じた上洛軍を編成、4万の軍勢を統率し、わずか1カ月あまりで入京を実現させる。そして、その後は四面の敵に臨機応変に信長軍を展開、天下布武への道筋をつける。信長は既にこの時点で、他の戦国大名とは異なった“集権”、あるいはトップ・ダウンという支配関係を家臣団との間に確立していた。
信長は天下布武というビジョン実現のために、家臣団の意識変革に成功したことを意味する。
これは、他の戦国大名にはできなかったことであった。家臣団の頑強な意識の抵抗をものともせず、信長は突き進む。信長は家臣団への支配力を強めるため、家臣団をそれぞれの領地から切り離し、知行地制を導入、代官を置くことによって土地への直轄支配を推し進め、兵農分離を促進した。
また、家臣に領地を褒賞として与えることを極力避けた。これは領地を直接与えることは家臣団の独立性を強め、組織内の分権化を内包するからである。土地を媒介として主従関係が成り立っていた中世社会の中においては、画期的な試みである。
信長は、ある程度、天下統一の事業が軌道に乗ってから、初めて柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益などの主な部将に領地を与えている。しかも、頻繁に家臣間の領地替えを行い、家臣が土地に居つくことを嫌った。
この領地替えという手法は後に秀吉、家康も採用している。また、土地を与える代わりに信長は、家臣の働きに対しては、銭、金棒、茶器などの新しい価値形態で報い、一方、それらの価値形態の供給を独占することにより、家臣団に対する支配力の強化を図った。
信長の土地支配に対する考え方の延長線上には最終的には全国の土地を中央集権的に掌握、中央から任命された官吏によって支配する郡県制的なものを彷彿させる。
信長が本能寺で倒れなければ、天下布武の過程で、毛利、島津、上杉、伊達、長宗我部などの大大名の存在は許さなかったのではないかと想像される。
信長は安土城を築いた際、城内に家臣団の屋敷を造り、常駐させた。家臣ではない同盟者であった徳川家康の屋敷も城内にあったと言われる。家臣団を城下に常駐させることは、家臣団を土地から切り離すだけではなく、その家族を人質化することにより、より家臣団への支配力を強める。
城下に家臣団の家族を住まわせ、人質にする政策を初めに打ち出したのは、朝倉家当主、朝倉故意と言われている。1470年に作られた、その家訓「朝倉敏景十七箇条」において「一乗谷の朝倉館のほかは決して城郭を構えさせてはならない。また高禄の家臣はことごとく一乗谷に引っ越させ、その郷、その村にはただ代官と下役人のみを置け」との記述がある。
信長は、この仕掛けを大規模なシステムとして導入、主な家臣の屋敷を城内に造り、常駐させ、有力家臣団への直接支配を本格的に実施した。
信長が美濃を攻略する前、後に秀吉の軍師となった竹中半兵衛が斎藤龍興の居城である稲葉山城をわずかな手勢で攻略することに成功したことがある。これは、竹中半兵衛の機略によるところも大きいが、実際のところは難攻不落と言われた天下の名城、稲葉山城でさえも常駐していた家臣は少なく、直属の配下のみであったことを示している。
秀吉も同様に、諸大名の屋敷を大坂に建てさせた。家康はこれをより制度化し、参勤交代という仕組みを導入する。いずれにせよ、その目的は有力家臣、大名諸侯に対する直接支配の強化である。それは、単に武力による“強制”や“恐怖”だけでは達成できない。前にも述べたが、“強制”や“武力”だけでは周りの人間の意識がもたない。
本能寺を待たずに、とっくに信長は殺されている。人の意識に働きかける創意工夫を通じてのみ、絶えざる“破壊”と“創造”を繰り返すことができる。信長の天下布武の実現の背景には、人々の意識に働きかける創意工夫の一大プロセスが存在する。
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			<content:encoded><![CDATA[<p>その中で、信長がいち早く、戦国大名が持つこの支配の脆弱性を克服、天下布武という自らのビジョン実現に向けて家臣団を動かした。</p>
<p>1567年9月に信長は美濃の斎藤氏が居城とする稲葉山城を落城させ、美濃攻略を果す。その翌年8月には、足利義昭を奉じた上洛軍を編成、4万の軍勢を統率し、わずか1カ月あまりで入京を実現させる。そして、その後は四面の敵に臨機応変に信長軍を展開、天下布武への道筋をつける。信長は既にこの時点で、他の戦国大名とは異なった“集権”、あるいはトップ・ダウンという支配関係を家臣団との間に確立していた。</p>
<p>信長は天下布武というビジョン実現のために、家臣団の意識変革に成功したことを意味する。</p>
<p>これは、他の戦国大名にはできなかったことであった。家臣団の頑強な意識の抵抗をものともせず、信長は突き進む。信長は家臣団への支配力を強めるため、家臣団をそれぞれの領地から切り離し、知行地制を導入、代官を置くことによって土地への直轄支配を推し進め、兵農分離を促進した。</p>
<p>また、家臣に領地を褒賞として与えることを極力避けた。これは領地を直接与えることは家臣団の独立性を強め、組織内の分権化を内包するからである。土地を媒介として主従関係が成り立っていた中世社会の中においては、画期的な試みである。</p>
<p>信長は、ある程度、天下統一の事業が軌道に乗ってから、初めて柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益などの主な部将に領地を与えている。しかも、頻繁に家臣間の領地替えを行い、家臣が土地に居つくことを嫌った。</p>
<p>この領地替えという手法は後に秀吉、家康も採用している。また、土地を与える代わりに信長は、家臣の働きに対しては、銭、金棒、茶器などの新しい価値形態で報い、一方、それらの価値形態の供給を独占することにより、家臣団に対する支配力の強化を図った。</p>
<p>信長の土地支配に対する考え方の延長線上には最終的には全国の土地を中央集権的に掌握、中央から任命された官吏によって支配する郡県制的なものを彷彿させる。<br />
信長が本能寺で倒れなければ、天下布武の過程で、毛利、島津、上杉、伊達、長宗我部などの大大名の存在は許さなかったのではないかと想像される。</p>
<p>信長は安土城を築いた際、城内に家臣団の屋敷を造り、常駐させた。家臣ではない同盟者であった徳川家康の屋敷も城内にあったと言われる。家臣団を城下に常駐させることは、家臣団を土地から切り離すだけではなく、その家族を人質化することにより、より家臣団への支配力を強める。</p>
<p>城下に家臣団の家族を住まわせ、人質にする政策を初めに打ち出したのは、朝倉家当主、朝倉故意と言われている。1470年に作られた、その家訓「朝倉敏景十七箇条」において「一乗谷の朝倉館のほかは決して城郭を構えさせてはならない。また高禄の家臣はことごとく一乗谷に引っ越させ、その郷、その村にはただ代官と下役人のみを置け」との記述がある。</p>
<p>信長は、この仕掛けを大規模なシステムとして導入、主な家臣の屋敷を城内に造り、常駐させ、有力家臣団への直接支配を本格的に実施した。</p>
<p>信長が美濃を攻略する前、後に秀吉の軍師となった竹中半兵衛が斎藤龍興の居城である稲葉山城をわずかな手勢で攻略することに成功したことがある。これは、竹中半兵衛の機略によるところも大きいが、実際のところは難攻不落と言われた天下の名城、稲葉山城でさえも常駐していた家臣は少なく、直属の配下のみであったことを示している。</p>
<p>秀吉も同様に、諸大名の屋敷を大坂に建てさせた。家康はこれをより制度化し、参勤交代という仕組みを導入する。いずれにせよ、その目的は有力家臣、大名諸侯に対する直接支配の強化である。それは、単に武力による“強制”や“恐怖”だけでは達成できない。前にも述べたが、“強制”や“武力”だけでは周りの人間の意識がもたない。</p>
<p>本能寺を待たずに、とっくに信長は殺されている。人の意識に働きかける創意工夫を通じてのみ、絶えざる“破壊”と“創造”を繰り返すことができる。信長の天下布武の実現の背景には、人々の意識に働きかける創意工夫の一大プロセスが存在する。</p>
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		<title>信長の破壊の流儀 - 第11回 “集権”をすることは自殺行為</title>
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		<pubDate>Mon, 15 Mar 2010 11:23:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[信長が掲げた天下布武には信長による直接支配、直接統治という意味合いが色濃く含まれている。当時の戦国大名諸侯が一般的に描いていた、あるいは想像していた天下統一とは、自らの手で上洛、足利幕府を再興、幕府の最高実力者として大名諸侯の連合体の上に君臨するといったものであった。
上洛を試みた今川義元、武田信玄なども上洛後の政体を同様に考えていたものと想像される。
信長の描く「天下布武」には大名諸侯の連合体のような政体はまったく含まれていない。信長の統治に対する考え方はすべてトップダウンを起点とする。“集権”を通じて、如何に直接支配の範囲を広げるか、直接統治を強化するかであった。
前述したように戦国大名とは武家領主による一揆と言える。守護からの支配に対抗し、自立的な領国経営を可能にするための組織である。この組織の上に、最も有力な者が戦国大名として君臨する。
信長の父である信秀などは典型的な例である。尾張守護代織田家の一奉行でしかなかった信秀は、この一揆という組織形態を巧みに利用、尾張における「触れ頭」的存在として君臨、戦国大名化していく。
確かに、従来の守護による領国経営のあり方と違い、1つの目的を共有する組織形態である一揆は、構成員の利害関係が一致する限り、強力な組織力を発揮する。多くの戦国大名が強力な軍事組織を確立、領国経営のための優れた民政政策を数多く実施してきたことを見れば、従来の守護大名の比ではない。
しかしながら、戦国大名と家臣団との支配関係は一揆の特徴である契約的要素が色濃く存在するため、大名自身の指導力、統率力という面でその脆弱性は否めなかった。
戦国大名の代表格である武田信玄、上杉謙信、毛利元就、北条氏康、伊達政宗などは、この支配の脆弱性に起因する領国経営の問題に常に苦労している。また、戦国大名間の戦いは往々にして、それぞれの家臣団を形成する国人層の利害と思惑が交差したものを原因としており、戦国大名自身の意志で起すというケースは少なく、家臣団である国人層が戦国大名達を戦いに駆り立てていたというのが実情である。
このような状況の中で、“集権”をすることは自殺行為に等しい。権力基盤の崩壊を意味する。それほど、戦国時代100年を通じて、一揆というしくみを通じて、分権と自立になれた、大名、豪族、国人層、仏教集団、更には家臣からの“集権”に対する拒否反応は並たいていのものではなかった。
次回はではどうやって家臣の意識を変えたのかという部分について語ってみる。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>信長が掲げた天下布武には信長による直接支配、直接統治という意味合いが色濃く含まれている。当時の戦国大名諸侯が一般的に描いていた、あるいは想像していた天下統一とは、自らの手で上洛、足利幕府を再興、幕府の最高実力者として大名諸侯の連合体の上に君臨するといったものであった。</p>
<p>上洛を試みた今川義元、武田信玄なども上洛後の政体を同様に考えていたものと想像される。</p>
<p>信長の描く「天下布武」には大名諸侯の連合体のような政体はまったく含まれていない。信長の統治に対する考え方はすべてトップダウンを起点とする。“集権”を通じて、如何に直接支配の範囲を広げるか、直接統治を強化するかであった。</p>
<p>前述したように戦国大名とは武家領主による一揆と言える。守護からの支配に対抗し、自立的な領国経営を可能にするための組織である。この組織の上に、最も有力な者が戦国大名として君臨する。</p>
<p>信長の父である信秀などは典型的な例である。尾張守護代織田家の一奉行でしかなかった信秀は、この一揆という組織形態を巧みに利用、尾張における「触れ頭」的存在として君臨、戦国大名化していく。</p>
<p>確かに、従来の守護による領国経営のあり方と違い、1つの目的を共有する組織形態である一揆は、構成員の利害関係が一致する限り、強力な組織力を発揮する。多くの戦国大名が強力な軍事組織を確立、領国経営のための優れた民政政策を数多く実施してきたことを見れば、従来の守護大名の比ではない。</p>
<p>しかしながら、戦国大名と家臣団との支配関係は一揆の特徴である契約的要素が色濃く存在するため、大名自身の指導力、統率力という面でその脆弱性は否めなかった。</p>
<p>戦国大名の代表格である武田信玄、上杉謙信、毛利元就、北条氏康、伊達政宗などは、この支配の脆弱性に起因する領国経営の問題に常に苦労している。また、戦国大名間の戦いは往々にして、それぞれの家臣団を形成する国人層の利害と思惑が交差したものを原因としており、戦国大名自身の意志で起すというケースは少なく、家臣団である国人層が戦国大名達を戦いに駆り立てていたというのが実情である。</p>
<p>このような状況の中で、“集権”をすることは自殺行為に等しい。権力基盤の崩壊を意味する。それほど、戦国時代100年を通じて、一揆というしくみを通じて、分権と自立になれた、大名、豪族、国人層、仏教集団、更には家臣からの“集権”に対する拒否反応は並たいていのものではなかった。</p>
<p>次回はではどうやって家臣の意識を変えたのかという部分について語ってみる。</p>
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		<item>
		<title>信長の破壊の流儀 - 第10回 「分散」のベクトルVS「集中」のベクトル戦い</title>
		<link>http://feedproxy.google.com/~r/strategiccomm/~3/KtVCHkVr-10/</link>
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		<pubDate>Fri, 12 Mar 2010 11:10:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.fleishman.co.jp/sc/sc_blog/?p=496</guid>
		<description><![CDATA[前回の「現世利益」vs「来世利益」で紹介した信長が成し遂げた意識づけに加え、今回は社会そのものを動かした意識改革を紹介する。
15世紀の終わりから16世紀半ば過ぎまでの期間は、日本史上でも最も社会が激しく動いた時代のひとつである。中世社会を規定していた中央集権的性格の色濃い荘園公領制、守護、地頭制の崩壊に伴い、支配の秩序が大きく変質した時代であった。
この時代は「一揆」という社会現象によって特徴づけることができる。戦国時代は下克上と言われるが、まさにその背景には、この「一揆」という新たな支配関係の秩序の出現がある。
農民や都市民だけでなく、武士、僧侶、神官などあらゆる社会層で一揆は結ばれた。彼らは、既存権威に対抗、ある共通の目的をもって組織化され、その構成員間の関係は従来の封建的な上下関係ではなく、契約という考え方を基礎にした自立的集団であった。
戦国大名自体、武家領主たちによる一揆組織であり、荘園制や守護、地頭制などの集権的体制に取って代わる新たな領国支配の在り方であった。
戦国時代の100年間、日本社会は“分権”と“自立”という分散のベクトルが働いていた時代であった。その中から徐々に「一揆」という社会現象の結果である有力な戦国大名や石山本願寺一向宗のような巨大な宗教勢力が出現する。そして、社会のベクトルは分権から統一の方向に転換し始める。
信長はこの“転換”を仕掛けたリーダーである。しかしながら、分権へ向かおうとするベクトルを、より集権の方向に戻し、新たな統一国家を構築するには、一揆という社会的構造を成立たせている支配関係の秩序を根本から変革する必要があった。これは、とてつもない“意識改革”の実現を意味する。
織田信長は1582年京都本能寺の変によって天下統一の志半ばで倒れる。信長が発想した新たな支配秩序の方向性は、その後、後継者である秀吉と徳川家康に引き継がれ、江戸時代約300年という世界史上でも珍しい天下泰平の世を実現させる。
次回は信長が仕掛けた集権の背景事情について説明したい。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>前回の「現世利益」vs「来世利益」で紹介した信長が成し遂げた意識づけに加え、今回は社会そのものを動かした意識改革を紹介する。</p>
<p>15世紀の終わりから16世紀半ば過ぎまでの期間は、日本史上でも最も社会が激しく動いた時代のひとつである。中世社会を規定していた中央集権的性格の色濃い荘園公領制、守護、地頭制の崩壊に伴い、支配の秩序が大きく変質した時代であった。</p>
<p>この時代は「一揆」という社会現象によって特徴づけることができる。戦国時代は下克上と言われるが、まさにその背景には、この「一揆」という新たな支配関係の秩序の出現がある。</p>
<p>農民や都市民だけでなく、武士、僧侶、神官などあらゆる社会層で一揆は結ばれた。彼らは、既存権威に対抗、ある共通の目的をもって組織化され、その構成員間の関係は従来の封建的な上下関係ではなく、契約という考え方を基礎にした自立的集団であった。</p>
<p>戦国大名自体、武家領主たちによる一揆組織であり、荘園制や守護、地頭制などの集権的体制に取って代わる新たな領国支配の在り方であった。</p>
<p>戦国時代の100年間、日本社会は“分権”と“自立”という分散のベクトルが働いていた時代であった。その中から徐々に「一揆」という社会現象の結果である有力な戦国大名や石山本願寺一向宗のような巨大な宗教勢力が出現する。そして、社会のベクトルは分権から統一の方向に転換し始める。</p>
<p>信長はこの“転換”を仕掛けたリーダーである。しかしながら、分権へ向かおうとするベクトルを、より集権の方向に戻し、新たな統一国家を構築するには、一揆という社会的構造を成立たせている支配関係の秩序を根本から変革する必要があった。これは、とてつもない“意識改革”の実現を意味する。</p>
<p>織田信長は1582年京都本能寺の変によって天下統一の志半ばで倒れる。信長が発想した新たな支配秩序の方向性は、その後、後継者である秀吉と徳川家康に引き継がれ、江戸時代約300年という世界史上でも珍しい天下泰平の世を実現させる。</p>
<p>次回は信長が仕掛けた集権の背景事情について説明したい。</p>
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		<title>信長の破壊の流儀 - 第9回 「現世利益」VS「来世利益」の戦い</title>
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		<pubDate>Tue, 02 Mar 2010 10:57:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.fleishman.co.jp/sc/sc_blog/?p=493</guid>
		<description><![CDATA[どのようにして長きにわたる一向宗との経済戦争に勝利したのか。それはこの「現世利益」VS「来世利益」を紐解くことが重要だ。
石山本願寺を頂点とする一向宗は各地で守護、大名、国人などの領主層との経済権益争いを絶えず起こしていた。
正面から石山本願寺一向宗一門に対抗できる、あるいは対抗しようとした勢力は信長が台頭するまで存在しなかったと言ってよい。
信長の対石山本願寺一向一揆戦略の基本は、一向一授の念仏を唱えれば極楽往生できるという「来世利益」に対して、「現世利益」を掲げ、それを多くの人々に示すことにあった。すなわち、信長は様々な経済施策を実施し、経済的な豊かさという「現世利益」を見せることで人々の支持を取りつけようとした。
10年以上に及ぶ信長と石山本願寺との戦いは、中世的封建体制を崩す2つの新しいビジョンのぶつかり合いでもあったことが分かる。
信長の石山本願寺に対する最終的な勝利は、「現世利益」の魅力が「来世利益」を凌駕したと言い換えてもよいだろう。信長が石山本願寺を含む仏教勢力との戦いに勝つためには、軍事力以上に、「現世利益」を具体的な形として示すための巨大な経済力が必要だった。信長についていけば、その先に何か豊かなものが現実として与えられるということを強く感じさせなければならないからだ。
他の戦国大名の家臣団とは異なった価値観を持つ集団だった信長軍団とはいえ、中世仏教の絶対的権威であった比叡山を完膚なきまでに焼き払い、伊勢長島、加賀では一向一授数万人の老若男女を大量殺戮することには強い抵抗感があったはずだ。単なる主従関係によって家臣団にこうした行為を強制するのは難しい。
信長に従えば、その先には豊かさが約束されているという信奉にも似た強烈な意識づけがなければ無理だっただろう。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>どのようにして長きにわたる一向宗との経済戦争に勝利したのか。それはこの「現世利益」VS「来世利益」を紐解くことが重要だ。</p>
<p>石山本願寺を頂点とする一向宗は各地で守護、大名、国人などの領主層との経済権益争いを絶えず起こしていた。</p>
<p>正面から石山本願寺一向宗一門に対抗できる、あるいは対抗しようとした勢力は信長が台頭するまで存在しなかったと言ってよい。</p>
<p>信長の対石山本願寺一向一揆戦略の基本は、一向一授の念仏を唱えれば極楽往生できるという「来世利益」に対して、「現世利益」を掲げ、それを多くの人々に示すことにあった。すなわち、信長は様々な経済施策を実施し、経済的な豊かさという「現世利益」を見せることで人々の支持を取りつけようとした。</p>
<p>10年以上に及ぶ信長と石山本願寺との戦いは、中世的封建体制を崩す2つの新しいビジョンのぶつかり合いでもあったことが分かる。</p>
<p>信長の石山本願寺に対する最終的な勝利は、「現世利益」の魅力が「来世利益」を凌駕したと言い換えてもよいだろう。信長が石山本願寺を含む仏教勢力との戦いに勝つためには、軍事力以上に、「現世利益」を具体的な形として示すための巨大な経済力が必要だった。信長についていけば、その先に何か豊かなものが現実として与えられるということを強く感じさせなければならないからだ。</p>
<p>他の戦国大名の家臣団とは異なった価値観を持つ集団だった信長軍団とはいえ、中世仏教の絶対的権威であった比叡山を完膚なきまでに焼き払い、伊勢長島、加賀では一向一授数万人の老若男女を大量殺戮することには強い抵抗感があったはずだ。単なる主従関係によって家臣団にこうした行為を強制するのは難しい。</p>
<p>信長に従えば、その先には豊かさが約束されているという信奉にも似た強烈な意識づけがなければ無理だっただろう。</p>
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		<item>
		<title>信長の破壊の流儀 - 第8回 仏教勢力との戦いは経済戦争</title>
		<link>http://feedproxy.google.com/~r/strategiccomm/~3/V2rLY_l3Tpg/</link>
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		<pubDate>Fri, 26 Feb 2010 12:30:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[実は、信長と石山本願寺一向宗との争いは信長が天下布武を唱えるかなり以前から始まっていた。
信長の育った東海一の港町、津島は、一向一揆が盛んであった伊勢長島と川を1つ隔てたところにあった。当時、津島も長島も新興商人、流通・運送業者、独立農業開拓民などの新興勢力が活躍した地域である。
信長は祖父の代から、彼らを巧みに取り込みながら織田家の勢力拡大を図ってきた。信長の組織が他の戦国大名と異質の輝きを持っているのは、これら新しい価値観を持った新興勢力を主体にした集団だったことによる。
木曽川下流域一帯に根を張ってきた川並衆や津島衆など独立性が高かった新興勢力を信長は家臣団に組み入れていった。これらの新興勢力が組織の中核となり、信長が1551年に家督を継いでから1567年に美濃攻略するまでの、いわゆる、離陸（テーク・オフ）期間において、信長の快進撃を支えた。
同地域において勢力を伸ばそうとしていた一向一揆は織田家にとってはその生命線である商業、流通を中心とした経済権益への大きな脅威であった。また、新興勢力の囲い込みという面においても一向一揆とは真っ向からぶつかっていた。
その中で、信長は「宗教」の怖さ、特に「来世利益」を求心力とする死を恐れぬ一向一揆集団の怖さをいやと言うほどに思い知らされた。その原体験が、その後の石山本願寺に対する徹底的な残滅戦略につながっている。
信長と本願寺との戦いはまさに経済戦争である。先に述べたように、石山本願寺は新興勢力を取り込み巨大な経済力を誇っていた。また、各地にある一向宗の末寺は農民に対して農業技術向上のサポートを行うなど精神的な面だけでなく経済的側面での指導的役割を果たしていた。さらに、当時は寺社の周辺は市場（流通）形成の場となっており、特権商人、職人による座の形成に伴い、その許可証を寺社が発行することが一般的であった。
次回はこの戦いを「現世利益」と「来世利益」という視点で見てみる。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>実は、信長と石山本願寺一向宗との争いは信長が天下布武を唱えるかなり以前から始まっていた。</p>
<p>信長の育った東海一の港町、津島は、一向一揆が盛んであった伊勢長島と川を1つ隔てたところにあった。当時、津島も長島も新興商人、流通・運送業者、独立農業開拓民などの新興勢力が活躍した地域である。</p>
<p>信長は祖父の代から、彼らを巧みに取り込みながら織田家の勢力拡大を図ってきた。信長の組織が他の戦国大名と異質の輝きを持っているのは、これら新しい価値観を持った新興勢力を主体にした集団だったことによる。</p>
<p>木曽川下流域一帯に根を張ってきた川並衆や津島衆など独立性が高かった新興勢力を信長は家臣団に組み入れていった。これらの新興勢力が組織の中核となり、信長が1551年に家督を継いでから1567年に美濃攻略するまでの、いわゆる、離陸（テーク・オフ）期間において、信長の快進撃を支えた。</p>
<p>同地域において勢力を伸ばそうとしていた一向一揆は織田家にとってはその生命線である商業、流通を中心とした経済権益への大きな脅威であった。また、新興勢力の囲い込みという面においても一向一揆とは真っ向からぶつかっていた。</p>
<p>その中で、信長は「宗教」の怖さ、特に「来世利益」を求心力とする死を恐れぬ一向一揆集団の怖さをいやと言うほどに思い知らされた。その原体験が、その後の石山本願寺に対する徹底的な残滅戦略につながっている。</p>
<p>信長と本願寺との戦いはまさに経済戦争である。先に述べたように、石山本願寺は新興勢力を取り込み巨大な経済力を誇っていた。また、各地にある一向宗の末寺は農民に対して農業技術向上のサポートを行うなど精神的な面だけでなく経済的側面での指導的役割を果たしていた。さらに、当時は寺社の周辺は市場（流通）形成の場となっており、特権商人、職人による座の形成に伴い、その許可証を寺社が発行することが一般的であった。</p>
<p>次回はこの戦いを「現世利益」と「来世利益」という視点で見てみる。</p>
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		<item>
		<title>信長の破壊の流儀 - 第7回 信長の最大の敵＝意識の壁、石山本願寺率いる一向一揆</title>
		<link>http://feedproxy.google.com/~r/strategiccomm/~3/R_xhXOZ_xQI/</link>
		<comments>http://www.fleishman.co.jp/sc/sc_blog/2010/02/24/%e4%bf%a1%e9%95%b7%e3%81%ae%e7%a0%b4%e5%a3%8a%e3%81%ae%e6%b5%81%e5%84%80-%e7%ac%ac7%e5%9b%9e-%e4%bf%a1%e9%95%b7%e3%81%ae%e6%9c%80%e5%a4%a7%e3%81%ae%e6%95%b5%ef%bc%9d%e6%84%8f%e8%ad%98%e3%81%ae/#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 24 Feb 2010 13:57:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.fleishman.co.jp/sc/sc_blog/?p=487</guid>
		<description><![CDATA[前回の「岐阜の城下町は『バビロンの雑踏』」に引き続き、今回も信長の最大の敵について説明する。
石山本願寺の率いる一向一揆は信長の最大の敵であったといっても過言ではない。
1580年に和睦が成立するまで信長は石山本願寺と10年間戦い続けた。
信長が行った画期的な革新が政教分離という政治革新と楽市楽座の代表される経済革新である。しかしながら、この2つの革新は本願寺一向衆、比叡山、高野山などの宗教勢力との戦いに勝ち抜いて、初めて実現できた。
宗教勢力に対する勝利なくして、2つの政治、経済革新はなかったと言える。
信長と宗教勢力の戦いは壮絶を極めた。宗教勢力の中で最も強大な組織が石山本願寺を頂点とする一向一揆集団であった。
親鸞を開祖とする浄土真宗は、蓮如によって組織化が図られ、石山本願寺を頂点とする一向宗として畿内、北陸、東海を中心に各地で勢力を拡大させた。中でも強勢を誇ったのが、伊勢長島の一向一揆と加賀、越前の一向一揆である。
特に加賀、越前は「一揆もちの国」と呼ばれ、戦国大名に匹敵する領主権を行使していた。
石山本願寺の急速な成長の背景には、蓮如による一般民衆を対象とした布教活動があった。その「教え」は単純明快である。「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、極楽往生できるというものであった。
度重なる飢饉、戦争によって民衆の生活が疲弊する中、この単純明快な「教え」は多くの民衆の心をつかんだ。これにより、蓮如の率いる浄土真宗は一向宗として急速に民衆の支持を取りつけ、結果として初めて仏教が民衆レベルに広まることになる。
一方、下克上の風潮の中で、中世的枠組みからはずれた新興商人、流通・運送業者、独立農業開拓民、地侍、地下入居など商業、流通、土地の開墾などを通して独自の経済力を築きつつあった新興勢力にも石山本願寺は着目した。
従来の封建的支配に服さないこの新興階級を巧みにその組織拡大のために取り込んだ。
石山本願寺を頂点とする一向一揆は、当時最大の政治勢力であると同時に最大の経済的影響力を誇っていた。信長が天下布武を実現するためには、どうしても石山本願寺の持つ巨大な政治力と経済力を粉砕する必要があった。
次回はこの石山本願寺の持つ経済力の背景について説明する。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>前回の「岐阜の城下町は『バビロンの雑踏』」に引き続き、今回も信長の最大の敵について説明する。</p>
<p>石山本願寺の率いる一向一揆は信長の最大の敵であったといっても過言ではない。<br />
1580年に和睦が成立するまで信長は石山本願寺と10年間戦い続けた。</p>
<p>信長が行った画期的な革新が政教分離という政治革新と楽市楽座の代表される経済革新である。しかしながら、この2つの革新は本願寺一向衆、比叡山、高野山などの宗教勢力との戦いに勝ち抜いて、初めて実現できた。</p>
<p>宗教勢力に対する勝利なくして、2つの政治、経済革新はなかったと言える。<br />
信長と宗教勢力の戦いは壮絶を極めた。宗教勢力の中で最も強大な組織が石山本願寺を頂点とする一向一揆集団であった。</p>
<p>親鸞を開祖とする浄土真宗は、蓮如によって組織化が図られ、石山本願寺を頂点とする一向宗として畿内、北陸、東海を中心に各地で勢力を拡大させた。中でも強勢を誇ったのが、伊勢長島の一向一揆と加賀、越前の一向一揆である。</p>
<p>特に加賀、越前は「一揆もちの国」と呼ばれ、戦国大名に匹敵する領主権を行使していた。</p>
<p>石山本願寺の急速な成長の背景には、蓮如による一般民衆を対象とした布教活動があった。その「教え」は単純明快である。「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、極楽往生できるというものであった。</p>
<p>度重なる飢饉、戦争によって民衆の生活が疲弊する中、この単純明快な「教え」は多くの民衆の心をつかんだ。これにより、蓮如の率いる浄土真宗は一向宗として急速に民衆の支持を取りつけ、結果として初めて仏教が民衆レベルに広まることになる。</p>
<p>一方、下克上の風潮の中で、中世的枠組みからはずれた新興商人、流通・運送業者、独立農業開拓民、地侍、地下入居など商業、流通、土地の開墾などを通して独自の経済力を築きつつあった新興勢力にも石山本願寺は着目した。</p>
<p>従来の封建的支配に服さないこの新興階級を巧みにその組織拡大のために取り込んだ。</p>
<p>石山本願寺を頂点とする一向一揆は、当時最大の政治勢力であると同時に最大の経済的影響力を誇っていた。信長が天下布武を実現するためには、どうしても石山本願寺の持つ巨大な政治力と経済力を粉砕する必要があった。</p>
<p>次回はこの石山本願寺の持つ経済力の背景について説明する。</p>
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		<item>
		<title>信長の破壊の流儀 - 第6回 岐阜の城下町は「バビロンの雑踏」</title>
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		<comments>http://www.fleishman.co.jp/sc/sc_blog/2010/02/18/%e4%bf%a1%e9%95%b7%e3%81%ae%e7%a0%b4%e5%a3%8a%e3%81%ae%e6%b5%81%e5%84%80-%e7%ac%ac6%e5%9b%9e-%e5%b2%90%e9%98%9c%e3%81%ae%e5%9f%8e%e4%b8%8b%e7%94%ba%e3%81%af%e3%80%8c%e3%83%90%e3%83%93%e3%83%ad/#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 18 Feb 2010 11:40:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[フロイスの「日本史」は岐阜城下町の様子をこのように伝えている。
「取引や用務で往来するおびただしい人々で道はにぎわい、一歩、店に入れば、商いと雑踏で家の中では自分の声が聞こえぬほどだった。昼夜、ある者は賭け事をし、飲食、売買、また荷造りに忙しく立ち働いているのだ。人口は八千人ないし一万人で、バビロンの雑踏を思わせた」
宣教師ルイス・フロイスによると岐阜の城下町はさながら「バビロンの雑踏」の様相を呈していたという。訪れた人々は楽市楽座のもたらす豊かさを実感していた。楽市楽座は今川義元、斎藤道三、六角承禎などがすでに部分的に実施していた領国経済振興策である。
しかしながら、本格的に導入したのは信長である。信長は商業、通商から上がる富の掌握という視点から楽市楽座に注目し、永禄10（1567）年に岐阜城下加納市場を楽市とした。更に、翌年には、楽座令を発布。商取引における既得権益を排し、自由に誰でもが商業や手工業に従事できるようにした。天正5（1577）年には、安土城下において楽市楽座を実施する。また、永禄7（1568）年、信長は嶺国内の開所をすべて廃止する。
それまで、たとえば伊勢の桑名と日永との約4キロの間には40もの関所があった。また、大坂と京都を結ぶ淀川の問には約400ヶ所の関所が設けられていた。これらの従来の経済活動のしくみの“破壊”は、新たな経済活動のしくみの“革新”を生む一方で、既得権益を持つ多くの商人や石山本願寺、比叡山延暦寺など座の特権を付与していた宗教勢力の反発を招くこととなる。とくに、信長と宗教勢力との戦いは壮絶を究める。本願寺や延暦寺などの仏教勢力との対立は表向き政教分離のための戦いであるが、実態は、この経済権益を争う経済戦争であった。
信長の最大の敵はこの、既得権益を死守しようとする宗教勢力の意識の壁であったと言える。
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			<content:encoded><![CDATA[<p>フロイスの「日本史」は岐阜城下町の様子をこのように伝えている。</p>
<p>「取引や用務で往来するおびただしい人々で道はにぎわい、一歩、店に入れば、商いと雑踏で家の中では自分の声が聞こえぬほどだった。昼夜、ある者は賭け事をし、飲食、売買、また荷造りに忙しく立ち働いているのだ。人口は八千人ないし一万人で、バビロンの雑踏を思わせた」</p>
<p>宣教師ルイス・フロイスによると岐阜の城下町はさながら「バビロンの雑踏」の様相を呈していたという。訪れた人々は楽市楽座のもたらす豊かさを実感していた。楽市楽座は今川義元、斎藤道三、六角承禎などがすでに部分的に実施していた領国経済振興策である。</p>
<p>しかしながら、本格的に導入したのは信長である。信長は商業、通商から上がる富の掌握という視点から楽市楽座に注目し、永禄10（1567）年に岐阜城下加納市場を楽市とした。更に、翌年には、楽座令を発布。商取引における既得権益を排し、自由に誰でもが商業や手工業に従事できるようにした。天正5（1577）年には、安土城下において楽市楽座を実施する。また、永禄7（1568）年、信長は嶺国内の開所をすべて廃止する。</p>
<p>それまで、たとえば伊勢の桑名と日永との約4キロの間には40もの関所があった。また、大坂と京都を結ぶ淀川の問には約400ヶ所の関所が設けられていた。これらの従来の経済活動のしくみの“破壊”は、新たな経済活動のしくみの“革新”を生む一方で、既得権益を持つ多くの商人や石山本願寺、比叡山延暦寺など座の特権を付与していた宗教勢力の反発を招くこととなる。とくに、信長と宗教勢力との戦いは壮絶を究める。本願寺や延暦寺などの仏教勢力との対立は表向き政教分離のための戦いであるが、実態は、この経済権益を争う経済戦争であった。</p>
<p>信長の最大の敵はこの、既得権益を死守しようとする宗教勢力の意識の壁であったと言える。</p>
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		<item>
		<title>信長の破壊の流儀 - 第5回 「土地本位制」から「銭本位制」へ</title>
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		<pubDate>Wed, 17 Feb 2010 13:36:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[信長は軍事力で天下布武を行ったのではない、信長は経済力によって天下を取ろうとした。
御旗のデザインに永楽銭を使ったことが象徴している。永楽銭とは、当時、日本で最も信頼され、普及していた中国の明の貨幣である。まさに、「銭で天下を取る」という信長の意志表示である。
信長は経済力をテコに天下統一の道筋を作ったとも言える。
信長は東海有数の商業港の津島にあった勝幡城で幼少を過ごした。信忠、信雄を生んだ側室、吉乃の生家で、灰、油の商人、馬借である生駒氏との緊密な関係などが信長の経済感覚を育てる。経済を創意工夫することによって土地に替わる「銭」を大量に創出し、他の戦国大名とは桁違いの莫大な資金力をもって組織革新、技術革新、政治革新を矢継ぎ早に実施、天下布武に邁進した。その原資創造をささえたのが信長の経済革新である。
その中心は「土地本位制」から「銭本位制」への移行を可能にした信長の貨幣政策である。永禄12（1569）年、撰鏡令を大坂、京都、奈良で発布、永楽銭を基準として他の銭との交換比率を決め、これを強制することによって永楽銭のような精銭のみならず、悪銭の流通をも増す政策をとった。また、同時に便乗値上げを禁止する物価政策も実施し、更に米を代替貨幣にすることを禁じ、米本位制からの脱却もはかった。
金銀銅の3貨制も導入した。それぞれの交換比率を決め、実質的に金銀の価値を銅銭こ対して切り下げるとともに、糸、薬、茶碗、鍛子などの大量購入には金銀の使用を命じ、金銀の貨幣としての普及を促進した。これらの貨幣政策によって・当時の主要な価値形態であった土地に対して貨幣（銭）の価値を相対的に上げる効果があった。
「銭」の「土地」に対する相対価値が上がることは、すなわち圧倒的な「銭」の調達力を持つ信長の原資拡大を意味する。他の戦国大名が「土地」を勢力拡大のための原資としていたのに対して、信長は「銭」という幾何級数的に拡大が可能な原資を成長力のベースとした。
天文18（1549）年、信長は16歳の時に近江の国友村に500挺の鉄砲を注文する。その時の資金力の大きさは4200人の軍団を一年間養える資金に相当する。織田家はすでにその当時から相当の貨幣力を蓄えていたことになる。
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			<content:encoded><![CDATA[<p>信長は軍事力で天下布武を行ったのではない、信長は経済力によって天下を取ろうとした。</p>
<p>御旗のデザインに永楽銭を使ったことが象徴している。永楽銭とは、当時、日本で最も信頼され、普及していた中国の明の貨幣である。まさに、「銭で天下を取る」という信長の意志表示である。</p>
<p>信長は経済力をテコに天下統一の道筋を作ったとも言える。</p>
<p>信長は東海有数の商業港の津島にあった勝幡城で幼少を過ごした。信忠、信雄を生んだ側室、吉乃の生家で、灰、油の商人、馬借である生駒氏との緊密な関係などが信長の経済感覚を育てる。経済を創意工夫することによって土地に替わる「銭」を大量に創出し、他の戦国大名とは桁違いの莫大な資金力をもって組織革新、技術革新、政治革新を矢継ぎ早に実施、天下布武に邁進した。その原資創造をささえたのが信長の経済革新である。</p>
<p>その中心は「土地本位制」から「銭本位制」への移行を可能にした信長の貨幣政策である。永禄12（1569）年、撰鏡令を大坂、京都、奈良で発布、永楽銭を基準として他の銭との交換比率を決め、これを強制することによって永楽銭のような精銭のみならず、悪銭の流通をも増す政策をとった。また、同時に便乗値上げを禁止する物価政策も実施し、更に米を代替貨幣にすることを禁じ、米本位制からの脱却もはかった。</p>
<p>金銀銅の3貨制も導入した。それぞれの交換比率を決め、実質的に金銀の価値を銅銭こ対して切り下げるとともに、糸、薬、茶碗、鍛子などの大量購入には金銀の使用を命じ、金銀の貨幣としての普及を促進した。これらの貨幣政策によって・当時の主要な価値形態であった土地に対して貨幣（銭）の価値を相対的に上げる効果があった。</p>
<p>「銭」の「土地」に対する相対価値が上がることは、すなわち圧倒的な「銭」の調達力を持つ信長の原資拡大を意味する。他の戦国大名が「土地」を勢力拡大のための原資としていたのに対して、信長は「銭」という幾何級数的に拡大が可能な原資を成長力のベースとした。</p>
<p>天文18（1549）年、信長は16歳の時に近江の国友村に500挺の鉄砲を注文する。その時の資金力の大きさは4200人の軍団を一年間養える資金に相当する。織田家はすでにその当時から相当の貨幣力を蓄えていたことになる。</p>
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