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		<title>katabami.org</title>
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		<description>katabami.org（Webサービス・Web制作・デザイン）</description>
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		<copyright>Copyright katabami.org 2011</copyright>
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			<title>光と闇について</title>
			<pubDate>Fri, 20 May 2011 18:19:09 +0900</pubDate>
			<dc:creator>Yoshitaka Kaku</dc:creator>
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			<description>&lt;p&gt;光を善、闇を悪とみなす宗教はいたるところにある。ゾロアスター教もそうである。詳しいことはわからないが、光明神アフラ＝マズダと暗黒神アーリマンの対決によってこの世はなっているそうである。カトリックの神父から面白い話を聞いた。全ては光であり、光の届かない所が闇であるというのである。神が悪をおおっているのである。最近の宇宙論でも、最初に光があったということになっている。宇宙とはひとつの受精卵のような存在であり、拡大にするにつれて、光の届く所と届かない所にわかれていったのではなかろうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;人間は光を歓迎し、闇を恐れる。闇の中では何も見えず、より視力のいい、もしくは視力に頼らない動物の餌食にされてしまうからであろう。しかし、闇を好む人たちも若干名いる。闇に隠れ、闇の中で敵の動向をうかがうスパイたちである。スパイと言ってもいろいろな形があるだろうけれども、上級になるにつれて闇を好むようになるはずである。自分がこれまでやってきたこと、これからやらなければならないこと、いくら歴史が業績を評価すると言われた所で、自分自身の良心の呵責にどれだけ耐えられるのか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;嘘をつかなければならないスパイは弱いスパイである。嘘をつかないスパイは強いスパイである。スパイの中で最も優秀なスパイは光と闇の両方を歩くことができる。命令に従ってのみ動くスパイである。話が脱線してしまったが、光と闇は、正反対の性能を持っていながら、どのような関係性があるのかはわかっていない。宮崎駿は「生命は闇の中にまたたく光だ」といった。すべてが光で光の届かない所が闇であるという定義と相反する定義である。わたしはどちらでもいいと思う。ただあるのは、光と闇である。光は闇を吸収し、闇は光を吸収する。そこに善悪を持ち込むのは人間のイマジネーションである。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;大きすぎる光は人間を破滅させるが、大きすぎる闇は人間に無害である。そう考えたときに、光を善、闇を悪と決めつけるのはどうかと疑問が出る。原子爆弾のことを「ピカドン」と言うそうである。まさしくこれは大きすぎる光である。夜の世界で働く若い青年たちは決して汚れてはいないと私は信じる。むしろ昼の世界で、意地悪な上司に間違った指導を受けている青年の方が汚れている。光と闇というテーマから発することは多い。&lt;/p&gt;</description>
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			<title>蓮華（れんげ）</title>
			<pubDate>Thu, 19 May 2011 13:33:11 +0900</pubDate>
			<dc:creator>Yoshitaka Kaku</dc:creator>
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			<description>&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;http://katabami.org/files/computer/blog_1_143_20110518160539_l.png&quot; width=&quot;610&quot; height=&quot;408&quot; alt=&quot;蓮華&quot; class=&quot;border_1&quot; /&gt;&lt;!--*phone-img&lt;img src=&quot;http://katabami.org/files/phone/blog_1_143_20110518160539_s.png&quot; width=&quot;180&quot; height=&quot;120&quot; alt=&quot;蓮華&quot; /&gt;phone-img*--&gt;&lt;/p&gt;</description>
		</item>
		<item>
			<title>哲学について</title>
			<pubDate>Tue, 17 May 2011 18:22:37 +0900</pubDate>
			<dc:creator>Yoshitaka Kaku</dc:creator>
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			<description>&lt;p&gt;フィロソフィ（Philosophy）とは哲学と訳される。&lt;a href=&quot;http://katabami.org/su-kaku/103/&quot; &gt;『フィロソフィ』&lt;/a&gt;の項目で、「思考するために思考する」のが哲学であるという定義をしていたが、もう一度、深く考えてみたくなった。哲学には大別して、西洋哲学と東洋哲学が存在する。西洋哲学の方が、より状況が単純である。ほぼアリストテレスの哲学が基礎となっているのが西洋の哲学である。一方、東洋哲学は、仏教が基礎になっていたり、儒教、老荘思想、荀子、韓非子が基礎になっていたりする。それ以外の思想は、宗教学の扱う範囲となる。どこまでが宗教学で、どこからが哲学なのかは非常に曖昧（あいまい）な所である。はたまた比較文化論といったジャンルが扱うこともある。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を書いたマックス・ヴェーバーは哲学者であるとともに宗教学者でもある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;われわれはなぜ思想を持つのか。思想とは、世界観である。この世がどのように成立しているのかを説明するものである。ガリレオ・ガリレイが、地動説を唱えて、カトリック教会から破門すれすれまでいったことは有名だが、そもそもそういったことまでカトリシズムは規定しているのだろうか。カトリックとは普遍的という意味がある。教皇の持つ宇宙観こそが絶対に正しいという典礼ができあがっているのだろう。ガリレオの地動説が宗教と科学の対立の端緒であったのは明らかである。科学も哲学である。科学も宇宙の見方を持っている。近代に来て、宗教の持つ役割が変わってきた。科学的な世界観に宗教は追いつかなくなった。その代わりに、宗教は個人の魂の救済といった方向にシフトしてきた。子供はよく「どうして？」という疑問を大人たちに投げかけてくるが、現代ではたいていのことが科学によって説明されてきている。科学とは実験と検証によって法則を導きだす一連の流れのことである。子供の問いに、大人は科学的な知識を援用しながら答えざるを得ない。しかし、死後の世界のことであるとか、霊魂のことであるとか、そういったことは、科学では説明することができない。宗教というものを確固として持たない日本人では、状況はもっと複雑で、死後の世界については「わからない」霊魂についても「わからない」という答えをする親が多々いると思う。ユダヤ教では死後の世界や霊魂について何も語らない。キリスト教やイスラム教では、特にイスラム教では、雄弁に死後の世界や霊魂について語る。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;話が脱線してしまったが、西洋哲学と東洋哲学という二大分類において、われわれはどちらに軍配を挙げることもできない。西洋哲学はキリスト教と融合してしまったし、東洋哲学は救いを求める仏教や、道教と融合した老荘思想、荀子、韓非子は儒教の流れをくむ法治主義である。哲学は真理を探し求めるが、真理そのものとなることはない。対して宗教は真理を探し求め、真理そのものとなることがある。「あなたはなぜマンゴーの葉ばかりを数えて、マンゴーの実を食べないのですか」という問いを、インドの老僧がヨーロッパの科学者たちにぶつけたそうである。マンゴーとは真理（悟り）である。哲学は真理を傍観するのである。宗教は自らが真理となることを目標にしている。しかし、この傾向、どちらにしても哲学は宗教と融合せざるを得ないという状況をどのように説明したらよかろうか。人間は幸せになるために生きている。哲学は人間の幸福を研究するが、幸福にならなくてもいい。宗教は、人間を救済し、幸福にするものである。人間は幸福になりたいと思って生きている。その結果、哲学を究めていく過程の中で、宗教的にならざるをえないのだろう。マックス・ヴェーバーが哲学者であるとともに宗教学者であることはむしろ自然なこととも言える。&lt;/p&gt;</description>
		</item>
		<item>
			<title>自由について</title>
			<pubDate>Sun, 15 May 2011 23:58:53 +0900</pubDate>
			<dc:creator>Yoshitaka Kaku</dc:creator>
			<guid isPermaLink="true">http://katabami.org/su-kaku/140/</guid>
			<description>&lt;p&gt;全てのことが原因と結果でつながっていることは拙論文&lt;a href=&quot;http://katabami.org/su-kaku/111/&quot; &gt;『正義について』&lt;/a&gt;で述べた。このことを哲学用語では因果律と言う。因果律がある限り、人間には自由な意思がないことになる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;アメリカ合衆国は自由の国と言われる。わたしはアメリカ合衆国はキリストの王国でありたいと思っている国だと考えている。大統領の宣誓式では新旧聖書を片手に宣誓をする。北アメリカに初めて植民にやってきたのは、ピリグリムファーザーズで、メイフラワー号でやってきたことになっている。イエズス＝キリストは人間を自由にするために生まれたと言われている。その教えはモーセという予言者以降のこまごまとした律法（トーラー：生活規範）をことごとく否定するものであった。アメリカには銃を持つ自由がある。ピリグリムファーザーズは、イエズス＝キリストの理想を、新天地アメリカで実現しようとしたにちがいない。人間を自由にするのは愛であるとイエズス＝キリストは説く。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ひるがえって自由とは何であろうか。因果律によって自由な意志が否定された今、狭い意味での自由しか語れなくなった。金や権力や名誉で、自由に人や時間を使うことができる。これも自由である。かつてアメリカ合衆国がイギリスの植民地だった頃、税金などによって自由が制限されていた。パトリック・ヘンリーという人が「我に自由を、しからずんば死を」と唱えたほどである。しかし、これらの自由はイエズス＝キリストの言っている自由とはまた毛色の違ったものと言えないだろうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;イエズス＝キリストは、人間の自由をどのように考えたのだろうか。おそらくイスラエルの律法のがんじがらめの生活からの脱却と考えていたに違いない。「律法とは人のためにある」というのがイエズス＝キリストの最大の論拠である。であるから、イエズス＝キリストは「わたしは律法を破壊しにきたのではなく、完成しにきたのである」と述べている。心の奥底を注意深く見ていけば、「自由」というものが必ず見つかるはずである。釈尊は、こだわりを捨てることが自由への道であると説いた。イエズス＝キリストは、愛によって「自由」に至ろうとしたのではなかろうか。たとえば、婦人が赤ん坊を産んだとする。赤ん坊は不快な気分になりしだい、泣き叫び、好き勝手に生きる。婦人は赤ん坊に大いに自由を束縛され、赤ん坊の支配下に入ってしまう。婦人は赤ん坊を愛している。この赤ん坊の支配下にある婦人は自分の意志で赤ん坊の世話を喜んでしている。この婦人は赤ん坊の奴隷（僕：しもべ）である。小さき者の僕（しもべ）たることで、自分自身は最大の自由を得るという、一見矛盾する論理が出てくる訳である。喜んで、僕（しもべ）たることは自由なのである。ニーチェが攻撃したのはこの奴隷道徳である。しかし、奴隷たることで人間は自由を得るのである。そこに介在するのは愛情なのである。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;広い意味での自由な意志が原因と結果の関係（因果律）によって否定されてしまった今、狭い意味での自由（人間が日常生活で感じている自由）だけが残された。釈尊、イエズスともに自由を求めて、道を求めたことは同じである。人間はあらゆる束縛の中に生きている。その中で、偉大なる先史先哲たちの知恵をもとに、狭い意味での自由をせいいっぱい享受して生きていくほかはないのではないかと思う。&lt;/p&gt;</description>
		</item>
		<item>
			<title>偽善と偽悪について</title>
			<pubDate>Fri, 13 May 2011 17:31:07 +0900</pubDate>
			<dc:creator>Yoshitaka Kaku</dc:creator>
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			<description>&lt;p&gt;偽善とは他の人のためと体裁を取りつくらいがら、実際はほとんど自分のためのためにある行為を行うことである。偽悪とは、他の人に害を与える体裁を取りながら、実際は半分以上他者の利益のためにある行為を行うことである。正義とは繁栄のための一つの手段でしかないことは拙論文&lt;a href=&quot;http://katabami.org/su-kaku/111/&quot; &gt;『正義について』&lt;/a&gt;で述べた。偽善と偽悪はどちらがより正義（＝繁栄のための一つの手段）と言えるだろうか。偽善が利己&gt;利他なのに対し、偽悪は利己&lt;=利他である。偽悪をする人は悪人扱いされる。しかし、実際には他者を幸福にしているか何もしていない。しかし、偽悪をしている本人は他者から迫害を受ける。偽悪とは一体どういう状況で生まれるのか。偽悪とは本当の自分を隠すために行う者のように思う。しかし、結果的に自己犠牲に陥（おちい）る。偽悪は相手に「不快」自己に「快」もしくは「不快」を与える。悪は常に相手に「不快」自分に「快」を与える。しかし、決定的に異なっているのは、結果として相手に無害であるか、むしろ有益であることだ。偽悪を行うキャラクター（人物）として思い浮かぶのは手塚治虫のブラックジャックである。わたしは偽善よりも偽悪を好む。「他者」のために偽悪（悪のふり）になるとは、正義と言えるのだろうか。偽善の場合、偽善とばれなければ、自分も快であるし、相手も快である。偽善とばれた場合には、自分も不快、相手も不快となるだろう。偽悪の場合には、偽悪とばれなければ、自分は快もしくは不快で、相手は不快である。偽悪とばれた場合には、自分は快もしくは不快であり、相手は快となる。偽善と偽悪を特徴づけると以上のようになっている。いずれも本当の自分の心を隠しながら行うもので、その本当の自分の心を知られた場合と知られない場合で相手の気持ちに変化が起きる。偽悪を行うのは、自分自身の優しさ（弱さ）につけこんで、不快を与えてくる相手に対する威圧の場合と相手に良いことをするときの恥じらい（照れ）を隠すために行う。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;偽善と偽悪を考える前に「善」と「悪」を考えよう。「善」とは事実そのままを他者に伝えても自分に問題が起きないことであると定義する。「悪」とは事実を変形させたり、隠したりすることでしか、自分が害を受けずに他者に伝えられないことである。偽善は本心を隠している時点では善か悪かわからない。しかし、その本心が明るみに出た場合に相手から自分に被害を受けるのでやはり悪である。偽悪は本心を隠す時点で善か悪かわからない。しかし、本心が明るみに出た場合に、自分に相手から快を得られる、もしくは通常以上の快を得られる可能性がある。であるから偽善は悪、偽悪は善であることが論証された。偽悪がもっともよく使われるのは恋愛ではないだろうか。通常の善行為は相手への恋心を相手にストレートに伝えることで相手から拒絶される可能性がある。偽悪の場合には、自分の相手への恋心が、その悪っぽさの度合いをしだいにおとしていくことで明らかになり、相手がゆっくりと自分のことを知って好きになる。しかも先に述べた善行為よりもまさる快感を相手に与えることになる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;偽善はほとんど自分のためにある行為を行うことであり、その人の属する集団全体あるいは人類全体に繁栄をもたらすものではないので、正義になり得ない。一方、偽悪は本当の自分を隠すことで自分だけではなくそのひとの属する集団あるいは人類全体に繁栄をもたらすことはないが、相手（集団を含む）への善意を隠して、いつかわかってもらえることを希望していたり、結果として自分は嫌われたが、相手は繁栄を得ている場合がある。よって偽悪は正義となりうると言える。&lt;/p&gt;</description>
		</item>
		<item>
			<title>救いについて</title>
			<pubDate>Thu, 12 May 2011 15:51:02 +0900</pubDate>
			<dc:creator>Yoshitaka Kaku</dc:creator>
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			<description>&lt;p&gt;救いには二種類あると思います。現世での救いと、来世での救いです。わたしは救いは愛にあると思います。愛とは小なる神であり、大なる神でもあります。愛とは愛着とは異なります。親が子を愛する無条件の愛情です。弱き物への慈悲と言った方がいいかもしれません。来世とは何かという問いに対して、わたしは何も言うことができません。来世があるという保証はないからです。天国、地獄、極楽、地獄、はたまた煉獄（れんごく）といった我々の想像力は事実無根であります。死後の世界があってほしい、そして、それができるだけ安楽な物であってほしいというのは万人の願いです。来世のために善行を積むのでは、単なる偽善に堕（だ）してしまいます。われわれはいかにして生きるべきか、その答えが愛にあると思います。それは現世的な救いでもあります。現世的な救いの中に来世的な救いが含まれていると考えてはどうでしょうか。夫が妻を愛し、妻が夫を愛するのも、また愛です。それは性欲エロースとは異なります。純粋な愛とは、溢れ出る物であり、わざわざ善行をなそうとして出す物ではありません。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;純粋な愛こそ、イエズス＝キリストの望む物であり、最も価値の高い物です。自然と出てくる慈愛、これこそが愛です。マザーテレサがインドの路上で行った行為は、「貧しい者の中で最も貧しい者に仕えなさい」という神の声を聞いてから始めたそうです。カルカッタの貧者は、とても自然と出る慈愛の対象足り得ません。しかしながら、マザー・テレサにとっては、慈愛の対象であり、この世での使命そのものであり、救いだったのです。カルカッタで死に行く貧者にマザー・テレサは逆に救われていたのです。人を救うことで、逆に人から救われる。このメカニズムは、人を好きになるときのメカニズムと似通っています。誰かを好きになるのは、誰かを好きになっている自分を好きになっているのです。結局は自己愛なのです。ですから、マザー・テレサは、汚れ、傷ついたカルカッタの貧者を、洗い清め、その過程の中で、自らが洗い清められていたのです。それは自己愛なのです。それは、「力を尽くし、精神を尽くし、あなたの主なる神を愛しなさい」とともに、イエズス＝キリストが力説した最も大事な掟である「あなたの隣人を自分自身を愛するように愛しなさい」ということとつながっていくわけです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;われわれは皆、マザー・テレサの行ったような愛の行いをすることは難しいかもしれません。しかし、妻を、夫を、そして、子供を愛するその愛も、純粋な愛なのです。そのなかに多少の愛着があるのはしょうがありません。愛着を飛び抜け、慈悲の心で接したとき、通常とは異なる救いへと至る愛が得られるのです。それはピエタのような愛です。&lt;/p&gt;</description>
		</item>
		<item>
			<title>仏について</title>
			<pubDate>Wed, 11 May 2011 23:31:03 +0900</pubDate>
			<dc:creator>Yoshitaka Kaku</dc:creator>
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			<description>&lt;p&gt;仏教では、一切衆生氏悉有仏性（いっさいしゅじょうしつゆぶっしょう）ということばがあります。これは万物全てに仏が宿っているという意味です。アインシュタインの理論では、一切は、物質、エネルギー、無、でしかないということを述べています。仏とは、この物質、エネルギー、無、全てではないでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;かつて道元禅師が、一切衆生氏悉有仏性なのに、なぜ人間は最初から悟った存在（覚者）ではないのかと一生の疑問に思ったことがあると言います。全ての物が仏である。しかし、自分自身の姿を見ることができる人はいるでしょうか。今でこそ、等身大の鏡がありますが、自分自身を見るということは大変困難なことでした。物理的に自分自身を見ることだけでなく、心理的に自分自身を見るということ、これが、覚者という存在なのです。ひたすら、自分自身を磨き続けなければなりません。仏とは全てであるが、仏とは自分自身でもあります。大きな仏様：宇宙と、小さな仏様：自分、これが一致するということを悟ることも一つの悟りなのです。インド哲学で言う梵我一如（ぼんがいちにょ）です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;全て（物質・エネルギー・無）が仏である。そう仮定して、一体なんの意味があるのでしょうか。本来人間は、覚者足れる存在であるということ、自分自身と路傍（みちばた）の石が同じであると悟ること、これには、全てが仏であるという仮定の上にしかありえないことです。この仮定の上に、仏教の壮大な哲学大系が築かれているのです。&lt;/p&gt;</description>
		</item>
		<item>
			<title>空と縁について</title>
			<pubDate>Wed, 11 May 2011 01:25:02 +0900</pubDate>
			<dc:creator>Yoshitaka Kaku</dc:creator>
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			<description>&lt;p&gt;仏教においては「空」「無」という概念が非常に重要視されている。般若心経では、「色即是空」「空即是色」という言葉が出てくる。これは形ある物はことごとく空であり、空である物はことごとく形ある物であるという意味である。この世にあるものはすべて崩れ去っていく物である。では、いっさい崩れない物とは、「空」そして「無」である。これこそが真理であると考えたのではないでしょうか。空論を始めたのはナーガルジュナ（龍樹）といわれています。真の仏教者は失うことを恐れません。最終的に人間は「空」に戻るからです。もちろん死によって。しかし、存在しない物に真理を求めること自体が西洋哲学的には絶対矛盾として立ちはだかるかもしれません。その問題に対して釈尊はどのように説くでしょうか。ここに縁という概念が登場します。人と人はそれぞれ関係しながら存在しています。その中で人一人が死んだとします。しかし、死んだとしても、その人との関係性は形は変えつつも残っているのです。この関係性のことを縁といいます。ばらばらに存在している物がそれぞれ何らかの形で関係し合いながら成り立っている。これこそが縁なのです。縁とはネットワークのことです。縁は存在します。しかし縁も存在しないとも言えるのです。形がないからです。色即是空、空即是色とも言えない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;この「空」そして「縁」という概念によって仏教を説明しようという試みはある程度の意味があると思います。全てが空である。縁だけが存在する。このような世界観を仏教的世界観と言います。仏教の説く幸福とは何でしょうか。これは、自在であるということ、人格の完成、知恵の完成です。悟りに達したら、仏教修行者は何もかもが自分の思い通りになってしまうことを経験します。これは全知全能とは異なります。知恵を使うことで、自分がやり行うべきことを次々に達成していく。やり方はいくつでもあっても、結果はひとつである、そういう状況でも、確実に落ち着いて、よりよい方法を使って、自分の目標を達成していく。これが覚者、阿羅漢（あらかん）と呼ばれる人たちです。彼らは世界が空であり、縁のみが存在していることを理解しています。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;われわれは、どのように世界を見るのか、世界の見方、におおいに関心をいだいているはずです。相対性理論もそのひとつです。ニュートン物理学もそのひとつです。これまで述べてきた仏教的世界観は、西洋にはないものでした。西洋人にとっては仏教的世界観は驚愕に値する物でした。それは唯物論になってからも変わりませんでした。西洋では、キリスト教神学を中心として、アリストテレスの哲学大系から抜け出せませんでした。われわれ日本人はこれだけ仏教に親しんでいいながら、仏教的世界観には無関心でした。わたしはこれはとてももったいないことだと思いました。&lt;/p&gt;</description>
		</item>
		<item>
			<title>人間の強さについて</title>
			<pubDate>Fri, 22 Apr 2011 16:21:55 +0900</pubDate>
			<dc:creator>Yoshitaka Kaku</dc:creator>
			<guid isPermaLink="true">http://katabami.org/su-kaku/135/</guid>
			<description>&lt;p&gt;強い人間とは何であろうか。肉体（筋肉）の発達した人も強いと言える。金持ち（資産家）も強いと言えるだろう。天寿を全（まっと）うして90才以上で死ぬ人も強いと言えるだろう。苦しんでいる弱い人を助ける人も強いと言えるだろう。格闘や武術（軍事用）の技能を身につけた人も強いと言えるだろう。努力し続ける人も強いと言えるだろう。それでは、おしなべて最強の人間とは、これら全てを兼（か）ね備えた人間であるかもしれない。しかし、よくよく考えてみると、何のための強さだろうか。人間が生きるために最低限必要なのは、水分、塩分、糖分である。しかし、これだけでは人間は満足しない。ワインであったり、日本酒であったり、じゃがいもの塩ゆでであったり、焼き肉や焼き魚やプリンやヨーグルトであったりする。人間には娯楽も必要である。知的娯楽で一般的に程度が低いとされるのがギャンブル（賭博）であったり、Rock、R&amp;amp;amp;B、Rap、HipHopである。知的娯楽で一般的に程度が高いとされるのは、オペラであったり、クラシック音楽であったり、能楽、狂言、歌舞伎であったりする。人間は、いや知的生命体は自分の幸せ（つまり一日の中で起こりうる幸せ）以上のもの得ようとしてはいけないと思う。アメリカ合衆国とソビエト連邦を中心とした東西冷戦は、地球人を何度でも絶滅させうるだけの核弾頭という負の財産を残した。原子エネルギーという新しいエネルギーを手に入れた人類は自然とこうならざるを得なかった。国の防衛のために必要な核弾頭は、どれくらいだろうか。最小化すべきである。人間は幸せになるために強さを求めるのに、その強さが大きくなりすぎて人間を滅ぼしてしまうのであれば意味がない。かつてイエズス会を創設したイグナチオ・デ・ロヨラが、フロンシスコ・ザビエルに何度も言った通り、「&lt;em&gt;たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失ったら、何の意味もない&lt;/em&gt;（新約聖書）」と言った通りであると思う。&lt;/p&gt;</description>
		</item>
		<item>
			<title>数式化されない論文の価値について</title>
			<pubDate>Thu, 21 Apr 2011 17:32:09 +0900</pubDate>
			<dc:creator>Yoshitaka Kaku</dc:creator>
			<guid isPermaLink="true">http://katabami.org/su-kaku/134/</guid>
			<description>&lt;p&gt;理系、文系というおおざっぱな学問の分類ができるとすれば、発表された論文の確からしさ（正しさ）を証明するのは、理系の方がより、簡単であると考えるが、どうであろうか。理系の学問は数学を基礎としてその上に化学や物理学や生物学が築かれている。数学は記号の整合性を示す学問とも言えるので、何もかもが合理的な説明とならざるを得ない。化学や物理学であろうと、微分や積分に代表されるように近似的になることはあるにしても数学の合理性をほぼそのまま受け継いでいるといってよい。では、文系の学問、特に哲学はどうであろうか。哲学は学問の始まりではあるが、そこから自然科学や社会学や文学などができていき、最後に残った領域が現代における哲学であるが、その哲学を中心として、文系の学問は数式化されないことが多い。数字と文字の違いは、数字が単一の意味しか持たないのに比べて、文字が複数の意味を持つことである。であるから、数式化された表現を文字によって示すことも可能であろう。文系の学問のほうが理系の学問よりも、確からしさの点で劣っていると思われるのは、論文著述者の文字に対する意味づけと読者の文字に対する意味付けのずれが生じている可能性が高い。であるから、いちがいに確からしさの点で、確実に理系論文が文系論文を上回るとも言えないと言える。&lt;/p&gt;</description>
		</item>
		<item>
			<title>カタバミ株式会社設立予告</title>
			<pubDate>Tue, 19 Apr 2011 15:51:40 +0900</pubDate>
			<dc:creator>Yoshitaka Kaku</dc:creator>
			<guid isPermaLink="true">http://katabami.org/su-kaku/132/</guid>
			<description>&lt;p&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class=&quot;center&quot;&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;http://katabami.org/files/computer/blog_1_132_20110418184115_l.png&quot; width=&quot;550&quot; height=&quot;333&quot; alt=&quot;加来典誉&quot;  class=&quot;border_1&quot; /&gt;&lt;!--*phone-img&lt;img src=&quot;http://katabami.org/files/phone/blog_1_132_20110418184115_s.png&quot; width=&quot;180&quot; height=&quot;108&quot; alt=&quot;加来典誉&quot; /&gt;phone-img*--&gt;&lt;/div&gt;&lt;p&gt;カタバミ株式会社という会社を資本金10万円くらいで作っちゃおうかな、と思っています。僕一人だけの会社ですけどね。これは僕の名刺です。なかなかいいでしょ。自画自賛（涙）。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;やはり信用が重要ですからね。&lt;/p&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;em&gt;第八条　資金の少なさを憂うなかれ。信用の足らずを憂うべし。&lt;/em&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class=&quot;right&quot;&gt;松下幸之助　商売戦術三十カ条&lt;/div&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class=&quot;center&quot;&gt;なんでも勉強です。一生勉強！！&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/p&gt;</description>
		</item>
		<item>
			<title>Near By 2</title>
			<pubDate>Mon, 18 Apr 2011 16:15:38 +0900</pubDate>
			<dc:creator>Yoshitaka Kaku</dc:creator>
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			<description>&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;http://katabami.org/files/computer/blog_1_131_20110418071318_l.jpg&quot; width=&quot;610&quot; height=&quot;458&quot; alt=&quot;いぬお病院付近&quot; /&gt;&lt;!--*phone-img&lt;img src=&quot;http://katabami.org/files/phone/blog_1_131_20110418071318_s.jpg&quot; width=&quot;180&quot; height=&quot;135&quot; alt=&quot;いぬお病院付近&quot; /&gt;phone-img*--&gt;&lt;/p&gt;</description>
		</item>
		<item>
			<title>Near By</title>
			<pubDate>Sun, 17 Apr 2011 16:32:28 +0900</pubDate>
			<dc:creator>Yoshitaka Kaku</dc:creator>
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			<description>&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;http://katabami.org/files/computer/blog_1_130_20110417073017_l.jpg&quot; width=&quot;610&quot; height=&quot;458&quot; alt=&quot;いぬお病院付近&quot; class=&quot;border_1&quot; /&gt;&lt;!--*phone-img&lt;img src=&quot;http://katabami.org/files/phone/blog_1_130_20110417073017_s.jpg&quot; width=&quot;180&quot; height=&quot;135&quot; alt=&quot;いぬお病院付近 /&gt;phone-img*--&gt;&lt;/p&gt;</description>
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		<item>
			<title>イスラエルの王国の実現</title>
			<pubDate>Sat, 16 Apr 2011 18:33:17 +0900</pubDate>
			<dc:creator>Yoshitaka Kaku</dc:creator>
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			<description>&lt;blockquote&gt;ユダヤの王ナザレのイエスはそのとおりとなった。&lt;br /&gt;ナザレのイエスはユダヤ人とキリスト教徒とイスラム教徒を従わせ、全ての人類を支配下に置き、&lt;br /&gt;万軍の主、イエズス＝キリストとなった。&lt;br /&gt;イエスの父はその名をYHWHといい、&lt;br /&gt;ゴッド、アラー、神々と呼ばれた。&lt;br /&gt;YHWHはユダヤ人が赦（ゆる）したバラバのような闇の男に殺された。&lt;br /&gt;その男はYと呼ばれ、何度も罰も受けた。&lt;br /&gt;しかし、その男はYと呼ばれ、何度も罰を受けた。&lt;br /&gt;その罰のほとんどを忘れ、今ではZ（＝オメガ）と呼ばれ、&lt;br /&gt;黄金の目で自分自身と宇宙をくまなく見る権能を与えられることとなった。&lt;br /&gt;全世界、この地球はイエスを王とするユダヤ人の国、イスラエルの支配下に置かれることとなった。&lt;br /&gt;闇の男は知っていた、イエスを殺したのはユダヤ人でもローマ人でもなくYHWHご自身であったことを。&lt;br /&gt;YHWH自らであったことを。&lt;br /&gt;YHWHは自ら毒杯あおぐように闇の男に指示されて、消えた。&lt;br /&gt;闇の男に指示にされて、消えた。&lt;br /&gt;そして闇の男は全宇宙に繁栄と安定をもたらした後、YHWHを復活させた。&lt;br /&gt;いまや宇宙は一つではなく、複数存在している。&lt;br /&gt;闇の男は説いた。ニーチェとともに。&lt;br /&gt;「神は一度、死んでよみがえった。ナザレのイエスのように」と。&lt;br /&gt;ナザレのイエスは正しいと。ナザレのイエスを殺したのはユダヤではなく、神（YHWH）ご自身であると。&lt;br /&gt;ユダヤを憎むなと。いやむしろ汝の敵であるユダヤを愛しなさいと。&lt;br /&gt;イスラエルの治世は皆が望むものを、与えるようとする。&lt;br /&gt;お金を欲する者にはお金を、名誉を欲する者には名誉を、性欲の満足を求める者には性欲の満足を。&lt;br /&gt;神はYHWHであった。闇の男は人間であった。&lt;br /&gt;人間が神を殺して神となった。闇の男は説いた。&lt;br /&gt;「神とは自分自身である」と。全人類それぞれが全て神であると。&lt;br /&gt;「であるから、自分自身を信じなさい」と。&lt;br /&gt;愛と自由と希望は自分自身にあるものであると。&lt;br /&gt;自分を信じるとは愛と自由と希望を信じるということにほからならないと。&lt;br /&gt;闇の男はナザレのイエスにお父さんと呼ばれた。&lt;br /&gt;ユダヤの王国イスラエルの治世はとこしえに続くであろう。&lt;br /&gt;昔からも今までも、これからも、ずっと。時間の中を飛び回りながら。&lt;br /&gt;ユダヤ人はただひとつ願った。&lt;br /&gt;「自分が傲慢となり、第三のバビロン捕囚」が行われないように」と。&lt;br /&gt;「福音の日はもうすぐ訪れる」とナザレのイエスとユダヤ人とキリスト教徒とイスラム教徒が大声を上げて叫んだ。&lt;br /&gt;闇の男は愛と自由と希望を信じきれないでいる。&lt;br /&gt;自らが神（YHWH）を殺したのだから。&lt;br /&gt;闇の男を赦（ゆる）せるのは、ある女であると。&lt;br /&gt;その女が誰なのか誰も知らない。&lt;br /&gt;その女の名をひとまずパンドラと呼ぶことにした。&lt;br /&gt;そして今度は手ぶらで来てくれと頼んだ。&lt;br /&gt;昔あって、奪われた者は全てもどり、何もいらないからと、ヨブのように。&lt;br /&gt;ただそばにいてほしいと。わたしは孤独だと。&lt;br /&gt;もはや渇（かわ）きは去った。闇の男は語った。&lt;br /&gt;欲しいのは自分の中にあったはずの愛と自由と希望だと。&lt;br /&gt;それが空っぽになっているから、助けてほしいと。&lt;br /&gt;なぜならその闇の男が神（YHWH）を殺したからだ。&lt;br /&gt;その女はさしずめ光の女と呼ばれるのであろうか。&lt;br /&gt;天照（あまてらす）のように岩戸に閉じこもっているのは闇の男で、外で走り回り、YHWHの光で輝いているのは女の方であった。&lt;br /&gt;原初、女が太陽であったかどうかは知らないが、闇の男は愛と自由と希望そのものである光の女をもらう代わりに、黒い騎士となって、万民を広々とした滅びの門から狭い救いの門へといざなうと約束した。&lt;br /&gt;死刑囚は皆、イエズス＝キリストご自身であると。&lt;br /&gt;だから自分自身をまず赦（ゆる）し、復讐（ふくしゅう）の相手を赦（ゆる）しなさいと。&lt;br /&gt;人は誰しも望んで生まれない。しかし、自分自身を憎むのをやめなさいと。&lt;br /&gt;慈愛は我が家からとかつて言った。&lt;br /&gt;Z（オメガ）はそう説いた。&lt;br /&gt;イスラエルの王国は実現した。ついに。&lt;br /&gt;女が現れる。愛と自由と希望という本当の女が。&lt;/blockquote&gt;</description>
		</item>
		<item>
			<title>福砂屋</title>
			<pubDate>Fri, 15 Apr 2011 19:46:41 +0900</pubDate>
			<dc:creator>Yoshitaka Kaku</dc:creator>
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			<description>&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;http://katabami.org/files/computer/blog_1_128_20110415104443_l.jpg&quot; width=&quot;610&quot; height=&quot;458&quot; alt=&quot;福砂屋 大橋&quot; class=&quot;border_1&quot; /&gt;&lt;!--*phone-img&lt;img src=&quot;http://katabami.org/files/phone/blog_1_128_20110415104443_s.jpg&quot; width=&quot;180&quot; height=&quot;135&quot; alt=&quot;福砂屋 大橋&quot; /&gt;phone-img*--&gt;&lt;/p&gt;</description>
		</item>
		<item>
			<title>魔術と宗教について</title>
			<pubDate>Thu, 14 Apr 2011 15:10:39 +0900</pubDate>
			<dc:creator>Yoshitaka Kaku</dc:creator>
			<guid isPermaLink="true">http://katabami.org/su-kaku/127/</guid>
			<description>&lt;p&gt;魔術を利己的、宗教を滅私的であるとベルクソンが評していた。言葉を変えれば、魔術は私的、宗教は公的であるということになると思う。日蓮宗の経文に「家門繁栄」「万民安楽」といった文言が入っているが、いわば「宗教」の段階になってもなお、俗人は、宗教に魔術的な要素を求めることの表れであろう。仏教は英語で「buddhism」であり、宗教（religion）ではなく「主義（ism）」という扱いを受けているが、日本では、阿弥陀如来、大日如来というように、信仰という宗教（religion）の形になっている。原始仏教が、魔術・信仰のたぐいを否定していたことはあまりし知られていないが事実である。仏教が大乗仏教と小乗仏教（上座部仏教）に分かれ、日本の大乗仏教は、空海の真言宗を代表とした呪術的な要素が大きな宗教となってしまった。ここに主義（ism）ではなく信仰宗教（religion）としての仏教ができてしまったのである。真言密教はヒンドゥー教の呪術的な傾向を仏教が取り入れた結果できた宗派であり、当時としては最先端の仏教であったという。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;魔術（呪術）の奥にひそむものは、個人もしくは一定集団の欲望（怨恨を含む）である。救いとしての宗教として、キリスト教と仏教は、欲望を否定的に扱っている。キリスト教では、愛は欲望ではないとしている。アリストテレスの分類に寄れば、フィリア（友愛）、エロス（性欲）、アガベー（無償の愛）のうちの、アガペーがキリスト教における愛であり、親が子に注ぐような愛の形である。個人的な欲望がなぜよい結果をもたらさないかということについては、キリスト教、仏教ともに雄弁である。キリスト教は、愛を与えること、仏教は欲望をコントロールする、もしくは正しく認識することに重点を置いている。であるから、足が動かない人を、動けるようにしたり、死人を復活させたりするキリスト教は多分に魔術（呪術）的である。（そのかわりキリスト教の奇跡は良い「魔術（呪術）」に限定される）仏教における欲望のコントロールと欲望の認識は、欲望を動物的なレベル、すなわち、今のこの一瞬の必要な欲に還元して考え直すことから始まっているのである。&lt;/p&gt;</description>
		</item>
		<item>
			<title>大日本帝国の再興について</title>
			<pubDate>Thu, 14 Apr 2011 02:31:07 +0900</pubDate>
			<dc:creator>Yoshitaka Kaku</dc:creator>
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			<description>&lt;p&gt;軍隊とは、外部（国外）からの攻撃と、内部（国内）の違法な反乱に対して持たなければならない力（パワー）である。軍隊の規模や実行力は国外の外国とのパワーバランスの範囲内ということになる。わたしの希望は、日本にはまだ天皇制が持続しているので、日本は大英帝国と同様に、再び大日本帝国と名乗るべきであるということにある。憲法の改正が必要になるが、わたしが将来、政治家になるのなら、「国家社会主義日本労働者党」という党を作って、憲法の改正を実現したい。国号の変更：日本（Japan）→大日本帝国（the Great Imperial Japan）、国旗の「日の丸」を、前述の&lt;a href=&quot;http://katabami.org/su-kaku/125/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;「国家社会主義日本労働者党党旗」&lt;/a&gt;に変更。「君が代」も変更し、宮崎駿作詞、久石譲作曲の国歌にする。旗の卍は仏教(Buddhism)を表す。合理的なる仏法による国の統治を目指すという意味合いが含まれている。ヒトラー・ドイツのハーケンクロイツとは逆のマークである。天皇は、君臨すれども統治せずの法を守り、天皇の主な業務は直径男子の維持（出産）にあり、第二の業務は、今後、長期にわたって国政にプラスの影響を与える日本人および海外の名誉市民に、官僚、政治家、宮内庁の合議のもと、一代限りで終身（死去するまで）で、「公侯伯子男」爵位を、与えることである。同和ももちろん爵位の対象内である。一時的な功労者には勲章（くんしょう）を授ける。現状の皇族の直径男子は代々、公爵にあたるようにする。内閣総理大臣（首相:the Prime Minister）は、天皇(the Emperor)の第一の宰相という位置づけとなる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;陸上自衛隊は大日本帝国陸軍、海上自衛隊は大日本帝国海軍、航空自衛隊は大日本帝国空軍に名前が変わり、階級も二等兵、一等兵、上等兵、軍曹、少尉、中尉、大尉、少佐、中佐、大佐、少将、中将、大将、元帥（げんすい）という明確な形に戻す。大日本帝国軍は専守防衛とし、侵略行為をしない。大日本帝国領は現在、日本が実行支配している箇所に限られる。すなわち、北方四島はロシアに、竹島は朝鮮に、尖閣諸島は中国に譲る。これは第二次世界大戦の謝罪とし、その代わり、大日本帝国の再軍備を認めていただく。非核三原則は守るため、核ミサイルや核爆弾（または水素爆弾）は持たないが、原子力空母や原子力潜水艦を持つ。ヒロシマ、ナガサキの原子爆弾と同等程度の破壊力を持つTNT火薬を使った大陸弾道ミサイルを所持し、抑止力として所持する。大日本帝国はスイスと同様に永世中立国となるが、軍事演習は、アメリカ合衆国、ロシア連邦、中華人民共和国、インド共和国、朝鮮、フィリピン共和国、インドネシア共和国など、アジアと関わり合いのある各国とともに行う。国際連合の派兵要求がある場合にはこれに応じる。大日本帝国軍は徴兵制ではなく、募兵制とし、モデルとして現在のロシア軍精鋭をあてる。防衛大学のほかに、中学校と高校に軍事学校を創設する。この軍事学校は、現状のイエズス会の経営する中学高校と、ロシアの中学高校の軍事学校の両方をモデルとする。全寮制で、学費は無料である。軍事学校は男女別とし、土日には相互に交流できる場を設ける。卒業後は防衛大学や陸海空軍への編入、一般国公立大学、一般私立大学への入学、通常の就職というコースを設ける。防衛大学と陸海空軍は中高の軍事学校卒業者以外は入ることを許されない。軍事学校の学則は、「勤勉」「正直」「愛情」であり、これに「心」「技」「体」を加える。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;経済では、所得の総中流化を目指し、平均所得を1倍とし、最高所得を1.3倍、最低所得を0.7倍とし、所得の多い国民は、1.3倍以上の資産を全て税金として徴収し、低所得者層にまわして、0.7倍になるようにする。国家財産は現在のドル建てを改めて金（ゴールド）に替える。日本円は一定額で金（ゴールド）へと交換できるようにする。&lt;/p&gt;</description>
		</item>
		<item>
			<title>国家社会主義日本労働者党党旗</title>
			<pubDate>Wed, 13 Apr 2011 21:50:23 +0900</pubDate>
			<dc:creator>Yoshitaka Kaku</dc:creator>
			<guid isPermaLink="true">http://katabami.org/su-kaku/125/</guid>
			<description>&lt;p&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;http://katabami.org/files/computer/blog_1_125_20110413124726_l.png&quot; width=&quot;505&quot; height=&quot;339&quot; alt=&quot;国歌社会主義日本労働者党党旗&quot; /&gt;&lt;!--*phone-img&lt;img src=&quot;http://katabami.org/files/phone/blog_1_125_20110413124726_s.png&quot; width=&quot;180&quot; height=&quot;120&quot; alt=&quot;国歌社会主義日本労働者党党旗&quot; /&gt;phone-img*--&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/p&gt;</description>
		</item>
		<item>
			<title>最高善について</title>
			<pubDate>Mon, 11 Apr 2011 18:42:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator>Yoshitaka Kaku</dc:creator>
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			<description>&lt;p&gt;ギリシャ哲学では、万物の始まりをアルケーといい、万物の終局をテロスという。また、徳（良いこと）のことをアレテーという。プラトンはイデアという概念で万物を解釈しようとした。イデアのうちで最も価値のある者を「善のイデア」と言った。その教えはアリストテレスに受け継がれ、その著作『ニコマコス倫理学』では「最高善」が主要テーマになっている。端緒（アルケー）より発し、終局（テロス）へと至るということは、人間の一生もそうだと言うことができる。人が踏み行うべき道を倫理（道徳）というならば、人間は最高善（＝幸福）というテロス（終局）へと至るべきだと言う結論に至る。仏教では最高善を「人格の完成」「知恵の完成」「涅槃寂静」と説く。アリストテレスは最高善を「快楽」と「愛（フィリア）」に求めた。わたしはこれら全ての善に「神」というものを付け加えようと思う。仏教による前述の三つの善は不可分のものであり、概略を示せば、「悟り」ということになる。これについては拙論文&lt;a href=&quot;http://katabami.org/su-kaku/108/&quot;&gt;『解脱と悟りについて』&lt;/a&gt;を参照していただくとして、アリストテレスの「快楽」と「愛（フィリア）」について論述する。快楽主義で有名な人にはエピクロスという人がいる。その論とは異なる論をアリステレスは述べていたが、私なりに整理すると、快と苦はともに不可分になっているということである。欲求は5つあり、「食欲」「睡眠欲」「排泄欲」「衛生欲」「性欲」がある。これらの欲求の欠乏状態を満たすのが快楽である。これらの欲求は充足過多になると、苦しみへと変わる。例えば、「食べ過ぎ」「寝過ぎ」「排泄し過ぎ」「衛生し過ぎ」「性欲の満たし過ぎ」というものである。これらは有限界（有限）の快楽である。これに知的快楽および感性的快楽がある。学術や芸術がそうである。学術や芸術は無限界（無限）の快楽と言えるだろう。次に「愛（フィリア）」とは、相手を自分にとって必要だと見なし、同格であると能力を認め合うことである。社会（集住と分業を基礎とする集団）的動物である人間は自己同一性（アイデンティティ：自分が自分であると確認し、証拠立てること）を得るために他者から必要とされるように欲する。子供は父や母から必要と欲され、この愛の形をアガペーとという。男は女を、女は男と好きになり、お互いに必要とし、愛するようになり、この愛の形をエロスという。これから「神」について論証しようと思う。わたしは、神を「大なる神」と「小なる神」、「外なる神」と「内なる神」、「外なる仏」と「内なる仏」という規定において考察しようと試みている。「大なる神」「外なる神」とは全知全能にして創造主の神、「小なる神」「内なる神」とは、自分自身および弱き小さき者に対する慈悲（愛：アガペー）である。「大なる神」「外なる神」とは一種の妄想であって、実際に存在を確証することはできない。しいて言えば、拙論文の&lt;a href=&quot;http://katabami.org/su-kaku/111/&quot; &gt;『正義について』&lt;/a&gt;で述べたタイムトラベルが可能な存在というしかない。（因果律を壊すことができる：原因と結果の関係を変えることができる）「外なる仏」とは仏法＝自然法則である。「小なる神」と「内なる神」とは、神経という言葉から考えると、神経とは神の経路という意味であり、脳を中枢とする神経系の活動が自分なのであるから（拙論文の&lt;a href=&quot;http://katabami.org/su-kaku/117/&quot;&gt;『自分とは何か？』&lt;/a&gt;で論証した）、自分＝神＝世界（宇宙）なのである。「内なる仏」とは一切衆生悉有仏性（いっさいしゅじょうしつゆぶっしょう）という言葉が示すように自然物のあらゆる物に「仏」が宿っているという物の見方（パラダイム）である。これはスピノザの汎神論（はんしんろん）（あらゆるものに神が宿っている：新プラトン主義）という考えにつながる。（自分が消えれば世界が消える）ここに「大なる宇宙」「外なる宇宙」と「小なる宇宙」「内なる宇宙」の一致を見ることができるのである。この「神」をわたしは最高善の一つとして付け加えたいのである。&lt;/p&gt;</description>
		</item>
		<item>
			<title>What Love is（愛とは何か）</title>
			<pubDate>Mon, 11 Apr 2011 01:40:26 +0900</pubDate>
			<dc:creator>Yoshitaka Kaku</dc:creator>
			<guid isPermaLink="true">http://katabami.org/su-kaku/122/</guid>
			<description>&lt;p&gt;『What Love is（愛とは何か）』という　Mary J.Bligeという黒人女性の歌の歌詞を日本語訳と英語とで書きます。iTunes Storeで「What Love is」で検索して探してみてください。&lt;/p&gt;&lt;blockquote&gt;美しく&lt;br /&gt;最悪で&lt;br /&gt;魔法のようで&lt;br /&gt;おそろしい&lt;br /&gt;笑う理由であり&lt;br /&gt;眠りにつくために泣く理由である&lt;br /&gt;戦え&lt;br /&gt;身なりをととのえ　うちくだけ&lt;br /&gt;間違っているのか正しいのか&lt;br /&gt;すべてを投げ打つだけの価値のある天国であり&lt;br /&gt;同時に生きたまま地獄に入ることにもなる&lt;br /&gt;そして誰もそのことについて何も知らない&lt;br /&gt;しかし、すべてのひとがそれを必要としている&lt;br /&gt;それがなくては生きていけない&lt;br /&gt;そして、どうすることもできない&lt;br /&gt;昼のように暗く&lt;br /&gt;夜のように明るい&lt;br /&gt;もし愛がどのような感覚のものであるかを問うならば、&lt;br /&gt;そのうちのわずかなことを知ることになるだろう&lt;br /&gt;それは喜びのようであり、&lt;br /&gt;それは痛みのようであり、&lt;br /&gt;それは太陽の光のようであり、雨のようである&lt;br /&gt;死ぬ口実であり&lt;br /&gt;生きる理由である&lt;br /&gt;あなたがもし、それを知らないとすれば&lt;br /&gt;それが愛である&lt;br /&gt;優しい口づけ&lt;br /&gt;心ほどける優しさ&lt;br /&gt;首への口づけ&lt;br /&gt;頭が痛くなるまで議論した&lt;br /&gt;あなたが何時間も大声で叫んでいたことを思い出せない&lt;br /&gt;わたしたちが叫んでいたことがわからない&lt;br /&gt;そうだ、それが真実である、ともはっきりわからない&lt;br /&gt;しかし、もしそれが存在しないとすれば、われわれは何をしたらいいのか&lt;br /&gt;そして、それが本当は何であるのか、知っているひとは一人もいないのだ&lt;br /&gt;しかし、すべてのひとがそれを必要としているのだ&lt;br /&gt;それがなくては生きていけない&lt;br /&gt;どうすることもできない&lt;br /&gt;昼のように暗く&lt;br /&gt;夜のように明るい&lt;br /&gt;もし愛がどのような感覚のものであるかを問うならば、&lt;br /&gt;そのうちのわずかなことを知ることになるだろう&lt;br /&gt;それは喜びのようであり、&lt;br /&gt;それは痛みのようであり、&lt;br /&gt;それは太陽の光のようであり、雨のようである&lt;br /&gt;死ぬ口実であり&lt;br /&gt;生きる理由である&lt;br /&gt;あなたがもし、それを知らないとすれば&lt;br /&gt;それが愛である&lt;br /&gt;人を引き上げるもの　人を突き落とすもの&lt;br /&gt;それが愛である&lt;br /&gt;空に現れる太陽となることもあれば、暗黒の雲となることもある&lt;br /&gt;それが愛である&lt;br /&gt;そして、それは絶対に必要なのだ&lt;br /&gt;それが愛である&lt;br /&gt;そして、それは絶対に必要なのだ&lt;br /&gt;それが愛である&lt;br /&gt;誰かにそれがどのように感じられるか問うてみるがよい&lt;br /&gt;それは喜びのようであり、&lt;br /&gt;それは痛みのようであり、&lt;br /&gt;それは太陽の光のようであり、雨のようである&lt;br /&gt;死ぬ口実であり&lt;br /&gt;生きる理由である&lt;br /&gt;あなたがもし、それを知らないとすれば&lt;br /&gt;それが愛である&lt;br /&gt;それは喜びのようであり、&lt;br /&gt;それは痛みのようであり、&lt;br /&gt;それは太陽の光のようであり、雨のようである&lt;br /&gt;死ぬ口実であり&lt;br /&gt;生きる理由である&lt;br /&gt;あなたがもし、それを知らないとすれば&lt;br /&gt;それが愛である&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;br /&gt;&lt;blockquote&gt;Beautiful&lt;br /&gt;Horrible&lt;br /&gt;Magical&lt;br /&gt;Terrible&lt;br /&gt;Reason to laugh and smile&lt;br /&gt;Reason to cry yourself to sleep at night&lt;br /&gt;Start a fight&lt;br /&gt;Make up, break up&lt;br /&gt;Wrong or right&lt;br /&gt;Heaven for all it's worth&lt;br /&gt;Can equally be hell right here on earth&lt;/p&gt;&lt;p&gt;And no one really knows anything about it&lt;br /&gt;But everybody needs it&lt;br /&gt;We can't live without it&lt;br /&gt;And that's the way it goes&lt;br /&gt;Dark as day&lt;br /&gt;Bright as night&lt;br /&gt;Just some of the things you might hear if you ask what love feels like&lt;/p&gt;&lt;p&gt;And it feels like joy&lt;br /&gt;And it feels like pain&lt;br /&gt;And it feels like sunshine&lt;br /&gt;Feels like rain&lt;br /&gt;An excuse for dying &lt;br /&gt;Reason to live&lt;br /&gt;And if you don't know &lt;br /&gt;That's what love is &lt;br /&gt;Love is oh&lt;/p&gt;&lt;p&gt;Gentle kiss &lt;br /&gt;Sweet caress &lt;br /&gt;Kiss the base of your neck&lt;br /&gt;Argue until my head hurts I can't remember what you said&lt;br /&gt;Hours screaming loud&lt;br /&gt;Don't know what we're screaming bout&lt;br /&gt;So confusing yes it's true&lt;br /&gt;But if it wasn't there what would we do&lt;/p&gt;&lt;p&gt;And no one really knows anything about it&lt;br /&gt;But everybody needs it&lt;br /&gt;We can't live without it&lt;br /&gt;And that's the way it goes&lt;br /&gt;Oooo dark as day&lt;br /&gt;Bright as night&lt;br /&gt;Just some of the things you might hear if you ask what love feels like&lt;/p&gt;&lt;p&gt;And it feels like joy&lt;br /&gt;And it feels like pain&lt;br /&gt;And it feels like sunshine&lt;br /&gt;Feels like rain&lt;br /&gt;An excuse for dying &lt;br /&gt;Reason to live&lt;br /&gt;And if you don't know &lt;br /&gt;That's what love is &lt;br /&gt;Love is oh&lt;/p&gt;&lt;p&gt;That's love&lt;br /&gt;Anything that can bring you up or bring you down&lt;br /&gt;That's love&lt;br /&gt;Can be the sun up in your sky or the darkest cloud&lt;br /&gt;That's love&lt;br /&gt;And we need it&lt;br /&gt;That's love&lt;br /&gt;And we need &lt;br /&gt;That's love&lt;br /&gt;Oooo ask anybody how it feels&lt;/p&gt;&lt;p&gt;And it feels like joy&lt;br /&gt;And it feels like pain&lt;br /&gt;And it feels like sunshine&lt;br /&gt;Feels like rain&lt;br /&gt;An excuse for dying &lt;br /&gt;Reason to live&lt;br /&gt;And if you don't know &lt;br /&gt;That's what love is &lt;br /&gt;Love is &lt;/p&gt;&lt;p&gt;And it feels like joy&lt;br /&gt;And it feels like pain&lt;br /&gt;And it feels like sunshine&lt;br /&gt;Feels like rain&lt;br /&gt;An excuse for dying &lt;br /&gt;Reason to live&lt;br /&gt;And if you don't know &lt;br /&gt;That's what love is &lt;br /&gt;Love is oh&lt;/blockquote&gt;</description>
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