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	<title>針の筵</title>
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	<description>@tshikimiの雑記帳</description>
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		<title>針の筵</title>
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		<title>【告知】C83冬コミ寄稿情報（二本）</title>
		<link>http://tshikimi.wordpress.com/2012/12/29/c83-information/</link>
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		<pubDate>Sat, 29 Dec 2012 00:49:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tshikimi</dc:creator>
				<category><![CDATA[others]]></category>

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		<description><![CDATA[おはようございます。機を逸してしまった感がありますが、Twitterだけではなく、ブログのほうでも告知記事を記しておきます。 <a href="http://tshikimi.wordpress.com/2012/12/29/c83-information/">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a><img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=tshikimi.wordpress.com&#038;blog=43004001&#038;post=300&#038;subd=tshikimi&#038;ref=&#038;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>おはようございます。本日からコミケ1日目となり、機を逸してしまった感がありますが、Twitterだけではなく、ブログのほうでも告知記事を記しておきます。</p>
<p>まずは一本目です。</p>
<h2><span style="color:#ff0000;font-size:x-large;">■龍血一滴<span style="font-style:normal;line-height:24px;">（東ヒ-15b,他）</span>：〈敵〉というレトリック</span></h2>
<p>C83（一日目）、機龍警察合同誌『<a title="公式サイト" href="http://golem.sub.jp/PD/">龍血一滴</a>』に「<span style="color:#333333;font-style:normal;line-height:24px;">〈敵〉というレトリック</span>」という設定考察論考を寄稿しました。冒頭500字をサンプルとして公開します。</p>
<blockquote class="pull"><p>「過去の歴史を振り返れば、市場の力は最後には政府の力を凌駕する。今世界で起きている様々な出来事は、金融、政治、犯罪の三つの観点から同時に捉える必要がある」――沖津旬一郎</p></blockquote>
<blockquote><p><em>機龍警察は、〈龍機兵〉を巡る設定を除けば、実に明確に現実の世界情勢を切り出している。</em></p>
<p><em>数ある代表作の中で、特に『ノワール』（2001）では美少女ガンアクションのストーリーラインの背後で第二次大戦以降の地域紛争や国家のアイデンティティにまつわる文脈を汲み取りながら緻密な世界観を構築していた脚本家・月村了衛。その氏の「作家デビュー作」とあって、私は本シリーズを手に取らずにはいられなかった。そして第三作『機龍警察　暗黒市場』まで読み終えた今、ノワールで現出しようとしていたあの〈世界〉との相似を、ここに強く読み取るのである。「機龍警察」には、現実の世界を如何にしてフィクションの中に反映させようかと苦心する、氏の信念のようなものが感じ取れると言ってよいだろう。その整合性への関心は、政治分野、経済分野、歴史分野と多岐に渡っており、非常に広い文脈を射程に入れている。さしあたって本稿ではそれらをまとめて「現代政治経済史」として曖昧に呼称しつつ、同時にそれらを綜合するニュアンスを込めて先のフレーズを用いることとしたい。本稿は「機龍警察」のストーリラインの背後に構築されている緻密な世界観を、俯瞰的な視座に立って現代政治経済史の文脈から解題する試みである。</em></p></blockquote>
<p>このように、論考では月村氏の作劇の姿勢から読み取れる、「とてつもなく巨視的な水準で現実を写生しようとするリアリズム」の形態を解題することを目標とします。ブルックスブラザーズのスーツを着てユーリの前に立ちはだかるかつての仇敵であり、ロシア官僚であったバララーエフ。その装いからは「アメリカナイズ」の記号が読み取れるのであり、拙稿ではオリガルヒの文脈の背後で含意されると思われるアメリカの「新自由主義」について紙幅を割きながら、沖津の「レッテル貼り」のポピュリズムから、オフショアを経由した集金スキームを通じた「新しい腐敗」の在り方までをテーマ的に解題しています。</p>
<p>次のご紹介に移ります。</p>
<h2><span style="color:#cc99ff;font-size:x-large;">■イルミナシオン<span style="font-style:normal;line-height:24px;">（東パ-28a）</span>：「異邦人」としてライトノベルを読む</span></h2>
<p>C83（一日目）、「思想と文学とサブカルチャー」の同人誌『<a title="公式サイト" href="http://illumina.farthest.org/">イルミナシオン</a>』に「「異邦人」としてライトノベルを読む」を寄稿しました。冒頭1200字となる誌面のサンプル画像を公式サイトのcontentsページよりお借りして記載します。</p>
<blockquote class="pull"><p>”一人の「ラノベ好き」の立場から敢えて「異邦人」としてライトノベルの好みを表明していくということ。新しい近代のコミュニケーション空間において、「声」を発する場所を確保するのは現代人の至上命題である”</p></blockquote>
<p><a href="http://tshikimi.files.wordpress.com/2012/12/50.png"><img class="aligncenter size-large wp-image-306" alt="50" src="http://tshikimi.files.wordpress.com/2012/12/50.png?w=442&#038;h=628" width="442" height="628" /></a></p>
<p>いつしかライトノベル界隈は、作品そのものを受容する場から、コミュニケーション主体の場へと移り変わってしまいました。そこではコミュニケーションのための読書が目的化し、作品の鑑賞は二の次となっています。その至る先は「お友達に嘲笑われるからあれこれの作品は読まない」といった受容態度、つまり醸成された規範意識に沿って選好が保守化することで、ライトノベル界隈にあった作品の多様性は失われてしまうのではないか、と筆者は危惧しました。拙稿では、そのような昨今のライトノベル情勢を「ライトノベル読者」の基礎付けによって読者論から解題し、同時に筆者のとる立場から竹宮ゆゆこ『ゴールデンタイム』の作品論を扱います。氏の作品から読み取れる「単独者の眼差し」を暴くことで、「ライトノベル読者はどうあるべきか？」という問題提起を行う論考です。</p>
<p>以上、冬コミ寄稿原稿2本をご紹介いたしました。</p>
<p>僕は会場にはおりませんが、お立ち寄りの際は是非お手にとって頂けると幸いです。</p>
<br />カテゴリー:<a href='http://tshikimi.wordpress.com/category/others/'>others</a>  <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=tshikimi.wordpress.com&#038;blog=43004001&#038;post=300&#038;subd=tshikimi&#038;ref=&#038;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>選挙の話</title>
		<link>http://tshikimi.wordpress.com/2012/12/17/syuuinsen/</link>
		<comments>http://tshikimi.wordpress.com/2012/12/17/syuuinsen/#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 16 Dec 2012 18:29:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tshikimi</dc:creator>
				<category><![CDATA[column]]></category>

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		<description><![CDATA[日曜に行われた衆院選であったが、僕も当日になってようやく候補者の公約や各党の政策を勉強しはじめ、その足で投票を済ませてきた。勉強不足の感は否めないが、個人的に政策判断のヒントとなった焦点について覚書を書き記しておきたい。 <a href="http://tshikimi.wordpress.com/2012/12/17/syuuinsen/">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a><img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=tshikimi.wordpress.com&#038;blog=43004001&#038;post=230&#038;subd=tshikimi&#038;ref=&#038;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>これから話す内容は、僕個人の現実の投票内容とは一致しないことを予め断り書きをしておく。</p>
<p>さて、日曜に行われた衆院選であったが、僕も当日になってようやく候補者の公約や各党の政策を勉強しはじめ、その足で投票を済ませてきた。勉強不足の感は否めないが、個人的に政策判断のヒントとなった焦点について覚書を書き記しておきたい。僕の最大の関心事はというと、やはり経済政策と福祉政策である。</p>
<p>今回の選挙の争点をざっと把握すると、新自由主義的な経済発展構想に断固として異議申立てを行なっているのが、日本共産党と社会民主党という認識で良さそうだ（以後政党名は略称を用いる）。両党に共通してみられる主張は、国民の生活を経済面から改革する具体案を提出していることであり、富裕層および企業体の優遇税制廃止と内需拡大に重きを置いているように読み取れる。特に共産党は企業の内部留保切り崩しを主張していて過激だ。しかし内需活性化による現実的な経済発展構想があるなら、僕はそれを強く支持したいと思わされた。というのは、今の経済発展構想の主流がそうではなく、アメリカを震源地とした「新自由主義」の経済思想に貫かれた金融資本主義による発展の影響を、日本もまた根強く受けているからである。</p>
<p>「新自由主義」の成り立ちを簡単に確認しておこう。現実の経済事象との関わりの起点となるのは、1980年代初頭、イギリスのサッチャー政権とそれに続いてアメリカのレーガン政権とで採られた反ケインズ的な経済政策で、その帰結として起こった世界的な経済構造の変化に根を下ろしている。これらの図式を理解するためにはまず20世紀初頭から中葉にかけての修正資本主義および福祉国家構想を理解しなければならない。つまるところケインズ主義なのだが、要点は政府による介入主義的な経済政策である。1930年代、世界恐慌の余波を受けた不況の中、ケインズの主張する購買力に裏付けられた「有効需要」の増大を目標とした金融・財政政策および公共事業の企画による雇用の創出をもたらしたアメリカのニューディール政策が注目され、1942年には第二次大戦のさなかにイギリスでケインズの理論体系を論拠とした「ベヴァリッジ報告書」が提出され、戦後の社会保障制度整備の礎となる。しかし50年代半ばを過ぎると実際にはイギリス経済の地位は相対的に低下し、代わりにフランス・ドイツの中央ヨーロッパ圏が社会保障を充実させ、福祉国家のモデルとして理想的な国家像を提示する一方で、他方ではスウェーデン・デンマークなどの北欧諸国がフランス・ドイツを上回る社会保障水準を達成して北欧型高度福祉国家モデルを形成していく。つまりケインズ的な経済政策とベヴァリッジの線引きした社会保障政策の組み合わせが戦後の先進資本主義諸国を牽引していった。だがそれも長くは続かず、こうした世界的な経済成長の時代は1973年の第一次石油危機を発端に幕を下ろす。1970年代後半は石油危機による不況とケインズ主義的経済政策の弊害による物価上昇が同時に訪れたスタグフレーションの時代である。これを打開する政策転換が前段落冒頭で述べたサッチャーによる「サッチャリズム」であるが、他方アメリカでは国内のリベラルと新左翼の闘争に対する反動的な政策を主張することで政権を獲得したレーガンという、より細かく入り組んだ文脈が存在する。</p>
<p>話を日本へと戻そう。要は、こうした潮流の中で、僕はある種「修正資本主義」的な経済政策を提案する左派政党を支持したい、と考えているということである。特に企業の内部留保へと目をつける共産党の主張は、われわれ国民からみれば「金庫」の在り処を指さしているに等しい。〈企業〉の中には間違いなく、（われわれからみれば）死蔵されたカネがあるのだ。その全てが”合理的な”投資に回されているのかは怪しい。</p>
<p>とはいえ、「企業の内部留保の切り崩し」は見方を変えれば「収奪の思想」である。</p>
<p>それもわれわれ国民が盗掘者となる思想だ。こういう所はある意味非常に共産思想らしいともいえる。だが、窮乏化を迫られている国民の受益する利害として考えてみれば、正義として正当化されるべき手段ではなくとも、利益はあるのだから国民の採りうる選択として考えられなくもない。「内部留保の切り崩し」とは具体的に何を指すか、というとそれは優遇税制の廃止である。つまり、企業からどしどし税金を毟りとっていく。企業は弱体化するだろうか？　いや、しない。少なくともここで想定されている「大企業」はお金を存分に余らせた資金供給主体なのだ。そこから収奪した税金を社会保障や公共福祉に分配していく。これは国民からみれば非常に合理的な判断に思える。そもそも「優遇税制」とは何だったのか。それによって〈企業〉は〈国家〉にカネを落としたというのだろうか。「優遇税制」とは、他ならぬ新自由主義を貫く最も強靭なイデオロギーの一つなのである。</p>
<p>ここまでみると共産党の政策は、われわれ国民にとっては非常に合理性のあるものにみえてくる。だが、この税制は運用面では上手くいかない。何故なら日本国が国内の税金を引き上げれば、企業はその拠点をより税金の掛からない海外へと移すため、深刻な資本逃避が起こると考えられるからだ。つまり、諸外国の税制も同時に変革しなければならない。これは現実的には不可能だ。強いて言えば、ここにはあの「世界同時革命」的な理想像が垣間見えるのである。</p>
<p>地に足つかない話ばかり展開してしまった。共産・社民両党の具体的な政策案についても触れておこう。増税政策の比較では、消費税増税反対の立場をとる日本共産党と社民党でも代替財源確保の指針に対照がみられる。共産は所得税・住民税の最高税率引き上げで富裕層からの徴収を意図している一方、他方で社民は国会議員定数や公務員給与の削減を掲げているが、コストの切り詰めは政府の縮小に繋がるので、僕としては支持できない。さらにいえば、公務員給与の給与水準を上昇安定させることで民間の給与水準をじりじり上げていく政策を提案している政党を支持したいという思いが個人的にはある。「公務員給与の切り詰め」は国民を窮乏化させるレトリックなので、特に僕のような非正規雇用に甘んじやすい若年層は断固として切り詰め反対を主張していきたい所存だ。まぁしかし、それ以外では社民党の主張する政策案は悪くない。特に憲法改正反対の根強い意思は魅力的だ。社民は支持層が薄いが、マクロ的な政策立案が無いからといって、国民にとっては別に悪い政党では無く、むしろ自分の生活を考えるなら是非支持したい政党であるといえる。特に僕は、自分が社会的に経済的弱者の自覚がある。それ故に国民の生活を第一に考える社民党の立場は熱烈に支持したい。</p>
<p>国政レベルでの政権担当機能が実質自民・公明にしか無い（特に共産・社民の実務能力はあまり現実的ではないだろう）というのは充分承知しているのだが、反対勢力も議席くらいは確保させておくべきであると考える。議会にはある種の冗長性が必要だ。国益の追求を至上命題とする政策が国民の利益と矛盾するのだとしたら、国民は自分の生活を守れる政党を支持したほうがよい。われわれは間接民主制の有権者なのであって、代議士ではない。メタの視点からみた国益のための政策の合理性より、国民自身が自らの生活を守る態度を追求していくべきだ。「自民が生活を守ってくれる」のではない。あなたは投票行為によってあなた自身の生活に関係する政党に票を入れ、己の生活を死守するべきなのである。そこで投票するべき政党は一体何処か。それこそ、自分の頭で考えなければならない。そこにある、一見国益と矛盾しそうな非合理な判断は、決して誰にも糾弾されないだろう。あなたの強靭な思考に基づいた一票を、僕は支持する。</p>
<br />カテゴリー:<a href='http://tshikimi.wordpress.com/category/column/'>column</a>  <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=tshikimi.wordpress.com&#038;blog=43004001&#038;post=230&#038;subd=tshikimi&#038;ref=&#038;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>それは、己の〈視線〉を発見する物語――映画「伏 鉄砲娘の捕物帳」</title>
		<link>http://tshikimi.wordpress.com/2012/12/16/fuse-teppoumusumenotorimonocyou/</link>
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		<pubDate>Sat, 15 Dec 2012 15:09:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tshikimi</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[movie]]></category>

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		<description><![CDATA[浜路ちゃんが本当に可愛かった。もう始まった途端から彼女の無防備すぎる感情表現にめろめろになってしまい、にやにやしたり、きゅんきゅんしたり、うるうるしたりとせわしなかったが、全編通してとてもリラックスしてみれたように思う。本稿はそんな、映画「伏 鉄砲娘の捕物帳」を語りの形式性に着目して解題する試みである。 <a href="http://tshikimi.wordpress.com/2012/12/16/fuse-teppoumusumenotorimonocyou/">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a><img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=tshikimi.wordpress.com&#038;blog=43004001&#038;post=130&#038;subd=tshikimi&#038;ref=&#038;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>浜路ちゃんが本当に可愛かった。</p>
<p>もう始まった途端から彼女の無防備すぎる感情表現にめろめろになってしまい、にやにやしたり、きゅんきゅんしたり、うるうるしたりとせわしなかったが、全編通してとてもリラックスしてみれたように思う。猟銃で仕留められて一筋の涙を流す犬の感傷に引きづられるように、犬鍋を前に浜路ちゃんは「一人じゃ食べきれないよぉ」と泣きだしてしまうのだけど、それに重ね合わせるように語り手が手際よく「祖父の喪失」と兄の道節からの便りを手がかりに山を降りる彼女の境遇を説明し、物語の土台が編みこまれていく導入も素晴らしかった。</p>
<p>本作の特徴はなんといっても、語り手の語りによって始まり、終わる点である。物語が進むに連れてどうやら「入れ子」に物語が編まれているらしいことが明らかとなる。鉄砲玉の直線の軌道、2人から1人への量的変化がもたらす釣り合いのとれなさ、手紙の送り手と読み手を繋ぐ関係の線なども、物語を説話論的に繋ぎあわせてゆくモチーフの一つだ。物語が真に「終わる」のは、ヒロインとその想い人が抱き合った引きの瞬間ではなく、読者が本を閉じる瞬間であり、キャラクターの行為が筋を消化し終えた瞬間ではなく、語り手が語りを終える瞬間なのである。こうしたつくりに目を向け、詳しく特色を述べていくことにしたい。それにあたって主に読み手が視聴済であることを想定して本稿を書くが、筋よりも構成への着目に重きを置いているので、未見の方も分からない情報は読み飛ばして読んで頂いても良い。キャラクターの名前については、公式サイトの紹介ページを下記に挙げておく。</p>
<p><a href="http://fuse-anime.com/character/">http://fuse-anime.com/character/</a></p>
<h2>1．　語りと描写</h2>
<p>本作はつまり、冥土の読本（よみほん）の翻案である。それを「上演」するに当たって冥土は自ら語り手を引き受けるが、同時に作者である自身も一種の「媒介者」として物語に登場する。彼女の物語の登場人物である浜路や伏の面子は究極的にはその存在を前提としない二重にフィクショナルな人物なのであるが、物語の「読み」においてそれは重要な問題であるとは言えない。ここではその関係の仕方が焦点となる。冥土は浜路が物語を進む傍らで時折その存在をアピールする。橋を渡りきった先、欄干にもたれて書物をする冥土、カメラ目線で受容者に合図を送って「ぐしし」と笑う冥土、などである。そんな物語の「書き手」である冥土と（その物語の主人公である）浜路が「繋がる」ことで、語りの視座は物語世界の中へと引き下ろされる。</p>
<p>冥土が特に入念に描写するのが浜路という少女の「変幻」である。山から降りてくる浜路の外見は中性的だ。実際「坊主」として扱われて訂正する場面が出てくるが、これもまた浜路の未分化のセクシュアリティを印象付けている。しかし決定されていない、ということはどちらにも「変幻」し得るということだ。</p>
<p>「なること」の同時性……。</p>
<p>〈男であること〉と〈女であること〉は両立し得ないが、〈男になること〉と〈女になること〉は並行可能である。その結果、例えば吉原の仕立屋の主人は〈女であること〉を選択した男となるが、浜路はその選択を留保された主体として、パラドキシカルではあるが本作においては同時に二つの方向への基礎付けが行われる。〈男になること〉を含意するのは若侍の男装であり、〈女になること〉を含意するのは信乃から贈られた着物と簪である。しかしそれは外装による「変幻」であり、浜路のパーソナリティとして定着するわけではない。それらは〈あること〉ではなく、依然〈なること〉を含意するに留まる。</p>
<p>これこそが「伏」の「変幻」の本質を射抜く描写ではないだろうか。</p>
<p>すなわち、「伏」は〈人になること〉と〈犬になること〉が同時に基礎づけられた主体として、”人間の皮膚”という外套をまとった犬として人の営みに紛れ込んでいる。その生命が尽きた瞬間、〈犬であること〉が決定され、最初からそうであったかのように毛皮の外皮を得るというのも理解に及ぶだろう。</p>
<h2>2．　〈繋がる〉の説話論的構造、あるいは〈あいこ〉の倫理性</h2>
<p>次に指摘したいのが、本作の語りの形式性である。脚本による説明的な台詞回しが少なく、よりよい鑑賞のためには俯瞰して”物語の形”を捉える必要がある。そのためのヒントとなるモチーフが銃だ。</p>
<p>銃身から発射された銃弾の弾道の直進性が、浜路特有の言い回しである〈繋がる〉を理解する鍵となる。要はこの始点と終点に置かれる両者の関係性のことである。それがミクロの領域では狩猟のモチーフから対話の関係に及び、マクロの領域では行為者と物語の対象とを結んでいる。話を映像表現と結びつけて拡大していこう。人間に対して脅威となる伏は生珠を食糧とする必要があり、信乃は人間から生珠を採取する。このとき信乃の腕は人間の身体を突き刺し、丸い風穴を人体に空けるが、この円が銃槍を連想させるのは偶然ではないだろう。浜路の狩猟と信乃の生珠喰いには意味連関が読み取れる。ゴロツキに絡まれた浜路を助けに来る信乃があけた風穴の向こうにお守りが映されるショットは記憶に残りやすい特異なレイアウトだが、後にそれと相似的に円のフレームの先に江戸城の全景が収まる映像が繋がれ、物語の転換を印象付けている。浜路のあける銃槍は狩猟者と獲物に1対1の関係性をもたらすが、信乃のあける「銃槍」はキャラクターと物語の対象を〈繋げる〉のである。このような認識可能な反復によって認知される物語の蝶番的要素を「説話論的構造」と呼ぶ。</p>
<p>異なる二者を〈繋げる〉説話論的構造を表現するのがあの銃弾の直進のムーブメントであったとすれば、その二者の関係を貫くのは狩猟者の倫理である。それが浜路のいう〈あいこ〉だと僕は理解している。狩猟の営みの中には、追う者と追われる者の関係の非対称性がある。それはキャラクターと物語の対象であっても同様だ。「物語の目的」がキャラクターを追うのではなく、キャラクターが物語の目的を追うのである。それに狩猟者の恣意性を持ち込むということ……。狩られる獲物は狩猟者を選べない。しかし浜路の祖父が熊に襲われて命を落としたように、マクロな視点でみれば狩猟者と獲物にある受動と能動の関係は逆転し得る。浜路の中にはそうした狩猟者特有のフィフティ・フィフティのおあいこ精神が価値判断の主軸となっているのだろう。であるが、江戸にきてすぐ兄の道節と行った「伏狩り」はその天秤を均衡させる狩猟行為とは成り得なかったことが思い出される。狩猟者の倫理は、時に道節を射抜く軽蔑・嫌悪の眼差しとなって立ち現れる。</p>
<p>それを〈あいこ〉にするということ……。</p>
<p>こうした浜路の中での意味の読み替えが、伏狩りという道節兄妹の目的から、女として信乃を追う狩猟者の恋路へと〈繋がる〉。</p>
<h2>3．　幼子―少女―女―母</h2>
<p>本作では浜路という1人の少女の「変幻」と並行して、〈女の一生〉とでも形容できそうな「幼子―少女―女―母」という主題が中心を貫いている。それは特に凍鶴・浜路・船虫を中心として展開される。凍鶴の「あんた、女になるのが怖いんだろう？」は浜路の身のふりを規定するヒントとなるが、浜路を中心軸として凍鶴と対照されるのが船虫である。船虫の対面するのは、鑑賞者にとってはあの”おあいこ”の天秤が傾いた卑俗な狩猟者の印象を引き摺った道節だ。二人の関係性は船虫の逡巡するこのとき、はじめて深入りして描写されるといっても良い。本作にとっては語りと描写が全てであり、物語に直接関係しない因と果は重要ではない。母として〈女であること〉を語る凍鶴と、〈母になること〉に逡巡する船虫を、「幼子―少女―女―母」という一筋の線に〈繋げる〉のが信乃を追う狩猟者としての浜路であった。</p>
<h2>4．　フィクションの上演――伏姫物語と治世の物語</h2>
<p>劇中でなんといっても目を引くのは、「書割の背景」である。物語の序盤で作為的に挿入される、あの背景と合いの手は、観客を物語の没入から浮上させる。言わば「これが物語であることを強く認識させられる」。その演出に少なからぬ印象を抱いていたのだが、それが歌舞伎の演目「贋作・伏姫物語」と、ラストバトルの信乃・家定戦へとリンクする構成が大変美しかった。本作には作中作となる「伏姫物語」のレイヤーがあり、それとの関係から信乃と家定の闘いも一つの「演舞」として鑑賞できるのである。そこで〈上演〉されるのは、言わば徳川の世を治める者の「治世の物語」だ。家定の村雨丸への心酔は、脚色された統治者のプレッシャーとも読み替えられる。そこで自らの統治行為に対して、ある種の「物語的把握」がなされると言えよう。そのような態度に自覚的なのが本作の特色だ。</p>
<p>「伏姫物語」の中で自らの起源である「人間の母」を演じるのが信乃であり、彼の生きる「伏せる物語」を共存の物語に再解釈して詠唱するのが馬琴である。前者は歌舞伎座をその虚構物語の境界とし、後者は浜路たち江戸の町民の営みを包み込む物語である。そして彼らを別の「正統」の系から記述し直そうとする物語行為が統治者である家定の物語だ。そこで対面するのが「伏せる物語」の詠唱者である信乃と、伏を駆逐する正統のための「治世の物語」を唱える家定となる。燃える江戸城の城内で、色鮮やかなふすまが立体の書割の背景を成している……。燃え上がる炎はまるで信乃の怒りと激情の感情のようだ。そして家定の村雨丸は、水流の剣で信乃の炎を断ち切ろうとする。あれはそういう演舞であり、それゆえに美しい演武者の舞にため息が洩れそうになった。そして「物語る」勝負に負けた家定は、あの起源へと渦を巻く渦巻き模様の中で、〈赤子〉へと回帰するのである。</p>
<h2>5．　物語を見下ろす〈視線〉の発見</h2>
<p>最後に物語を〈繋ぐ〉のは、江戸城へと追撃する信乃と、走る浜路とを結ぶラインだ。このくだりは、画面上手側から下手側へと直進する信乃をメインとしたスクリーン・ディレクションで表現される。江戸城を目標に右から左へと走る信乃の映像の直ぐ後に、位置関係を継承して同じムーブメントを描く浜路の映像がつながれる。すると信乃の侵攻はむしろ逃避の運動にみえてくる。さらに上手は一般的に「未来方向」、逆に下手は「過去方向」と表現される事例が多いことを加味すると、信乃の進む経路は映像のレベルで「過去への回帰」の印象を与える、といっても良い。ここで狩猟者と獲物の非対称の関係は、恋する乙女と意中の男のそれに読み替えられ、「伏せる物語」を演舞し終えた信乃を「捕らえる」浜路の姿は、彼女を主人公としたラブコメディにメインの筋が乗り換えられたことを暗示する。裾を上げ、身体にフィットした着物は彼女の「在り方」を規定する衣装だ。簪を失い、髪を解いた姿が逆説的に〈女であること〉を表現しているといえる。さて、ここで物語が終わればよくある「男女のラブストーリー」だ。だが本作はここでは終わらない。終わりの句を唱えることで、〈物語〉は真に語りを終える。ここにある重層的構造こそが、「どのラインで読むか？」という問題提起を浮き彫りにしている。</p>
<p>本作には矛盾する二つの鑑賞態度が想定できる。一方は物語内容に深く感情移入し、虚構世界に没入する読みのラインであり、他方は俯瞰した視座から〈物語〉の全体像を捉える読みのラインだ。全体像を視野に収めるということは、己の視線に自覚的になるということだ。あなたは、あなたが物語を見下ろす自らの〈視線〉を、そこに発見するのである。そろそろ結論へと入ろう。</p>
<h2>6．　まとめ――<span style="color:#333333;font-style:normal;line-height:24px;">パラレルな〈読み〉のライン、あるいはそのスポイル。そして……</span></h2>
<p>本稿では『伏 鉄砲娘の捕物帳』の中心を貫く〈物語〉の形式性に着目し、そこで称揚される「物語ることの肯定」の内容を解題した。</p>
<p>語り手の〈語り〉によって物語は始まり、その虚構世界の中で「伏姫物語」の虚構物語が入れ子となるが、その中を生きる信乃の「物語の境界」を侵犯する自己変革の「語り直し」の物語行為と、それと相対立する家定の個人史的な「治世の物語」が、語り手を争い合うイメージを表現した〈演舞〉となって見せ場を彩り、それらを浜路の「恋の物語」としてもう一度語り直した冥土の創作が、全体を包み込んでいる。「ぐしし」と笑う冥土の、あの不敵な笑みが瞼の裏に浮かんでくるようだ……。水面を覗きこむと、そこには語り手の身体が映り込んでいるのである。</p>
<p>あの幕引きは、物語られた虚構世界のキャラクターとの遭遇を暗示している。〈繋がる〉のはほかでもない「あなたの視線」と「あなたを視る視線」だ。</p>
<p>こうした込み入った重層的構造の全貌が最後にみえて僕は大変白熱したものだが、同時に話の筋自体も娯楽作品としても楽しめる内容となっており、非常に出来の良い作品となっている。私的な評価を下すとすれば、今年度のアニメ映画ベストといっても良かったかもしれない。それくらい面白かった。しかし本作は同時にある両義性を内包している。それは物語の構造を読み取るには俯瞰の視座をとる必要があるが、物語に感情移入するためには自らを物語へと没入させないといけないということである。これはトレードオフの関係だ。〈読み〉を確定させるためには、他方の読みをスポイルしなければならない。であるが、本作の両価性はあの浜路の衣装をヒントに捉えることができる。そもそも伏とはあの変幻する表面を巡る物語だった。そこにぼくは本作の意味を見出すのである。</p>
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		<item>
		<title>「中学校にラノベを導入するべきか？」という話</title>
		<link>http://tshikimi.wordpress.com/2012/12/14/jhs-ranobe/</link>
		<comments>http://tshikimi.wordpress.com/2012/12/14/jhs-ranobe/#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 14 Dec 2012 10:14:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tshikimi</dc:creator>
				<category><![CDATA[column]]></category>

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		<description><![CDATA[Twitterのタイムラインで、中学校の図書室へのライトノベルの導入に関する@trumpe3128氏のつぶやきに端を発した議論を見聞きし、それに対する＠numenunu氏の応答（URLは後述）をみて「それはちょっと違うんじゃないか」と思ったので、教育機関の図書はどうあるかべきかについての「べき論」を、僕の個人的な意見として書き連ねていく。 <a href="http://tshikimi.wordpress.com/2012/12/14/jhs-ranobe/">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a><img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=tshikimi.wordpress.com&#038;blog=43004001&#038;post=185&#038;subd=tshikimi&#038;ref=&#038;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>Twitterのタイムラインで、中学校の図書室へのライトノベルの導入に関する@<a href="http://twitter.com/trumpe3128" target="_blank">trumpe3128</a>氏のつぶやきに端を発した議論を見聞きし（※注1）、それに対する＠<a href="http://twitter.com/numenunu" target="_blank">numenunu</a>氏の応答（URLは後述）をみて「それはちょっと違うんじゃないか」と思ったので、教育機関の図書はどうあるかべきかについての「べき論」を、僕の個人的な意見として書き連ねていく。</p>
<p>まず話の流れを整理するとこうだ。</p>
<p>とある一般書店の外商部が、学校法人もしくは地方公共団体の機関である中学校にライトノベルを納入するための営業を掛けるにあたって、具体的にどのようなラインナップを提案すれば良いのかを、担当の社員が売場のライトノベル情勢に詳しい書店員の<a href="http://twitter.com/trumpe3128" target="_blank">trumpe3128</a>氏に相談を持ちかけたというシチュエーションである（と僕は理解している）。</p>
<p>この時点で実際の納入はまだ行われておらず、世間話的なニュアンスの可能性も加味し、一般論として「これこれこういった図書が納入されるべきである」というべき論を中心に議論が展開されていると判断して、この先の話を進めていきたい。上の流れに対する<a href="http://twitter.com/numenunu" target="_blank">numenunu</a>氏の批判は次の通りである。</p>
<p><a href="http://d.hatena.ne.jp/nunnnunn/20121213/1355416639" rel="nofollow">もっと中高生の読みたいラノベを考えろ &#8211; 主にライトノベルを読むよ＾0＾／</a></p>
<p>氏の主張の核心部分を引用する。</p>
<blockquote><p>中学生に読ませたいラノベねぇ･･･そうですかはぁ</p>
<p>いやまあ納得のラインナップだけど。それ中高生が読んでくれると本気で思ってる？</p></blockquote>
<p>これに続いて主張の根拠となるのが以下のくだりである。</p>
<blockquote><p>まず自分の身にあてはめて考えてみようよ</p>
<p>中学校の図書館にいって、10年も前の、名前程度しか知らない、クラスのみんなも読んでない、イラストも古い、10巻以上も巻数があるシリーズ作品が置いてありました。あなたは借りますか？</p>
<p>普通借りないよね。借りる？別にいいと思うよ。で、借りてそのシリーズ読破して。その読書体験を誰と共感するんです？</p></blockquote>
<p>氏の主張から伝わってくる熱意には敬意を払いたいと思う。しかしこの議論で重要なのは、上のような問題意識ではない。本当に考えるべきなのは、「誰の目線から考えるか？」という立ち位置の問題である。それに関して僕は、実際に本を手にすると考えられる生徒の立場ではなく、図書の納入に関する一切を決定する、強いて言えば「大人」の立場からの主張を展開していくべきだと主張したい。</p>
<p>実際問題、「子どもに読ませる（べき）本」についての議論というのは、存分に教育的配慮の必要な話である。</p>
<p>社会的使命として目録にある種の網羅性を要求される公共の公立図書館とは違い、比較的小規模な教育機関である中学校の図書室には現実的な制約として書架のスペースが限られるものと想定される。このケースで挙げられている仮想の納入先を、ごく一般的な公立中学校であると仮定しよう。そこでは、限られた収容力の中で「いかなる図書の目録を用意する（べき）か？」という判断には、先述の公立図書館とはまた違った意味で公共性を要求されるはずである。実際に学校側が明確な問題意識をもって保護者会を開き、「生徒がアクセスできる知的体系」としての図書目録を作成するという選書過程のシチュエーションをすべての公立中学に関して想定するのは難しい。であるが、上記の議論はそもそも「一般論」として議論されているわけだから、こういう想定も可能なものと考える。</p>
<p>さて、ここで取り沙汰されるのが「どういうラノベを中学校におけば良いのか？」という例の議論である。</p>
<p>もうお分かりの通り、これはラノベの具体的なラインナップというよりも、問題の本質としては「何故置くのか？」が議論されるべき局面である。中学校に納入されるとするラノベは、その代わりに納入されるはずだった図書との関係から考察しなければならない。代わりとは何か。ここでは僕の意見として、ちくま・学芸・岩波・平凡社・河出・講談社学術文庫などのいわゆる「教養文庫」の類を仮定する。これらをテーマに沿って一通り揃えるだけで本棚のかなりの面積を占めるだろう。ラノベを置くとなると、こうした図書を置くことのできるスペースも限られる。だが果たして「教養文庫」なぞ入れて、「中学生が読めるのだろうか」という向きは当然あるように思える。しかし、「内容を理解できること」と「アクセスできること」の間には相違があるはずである。「中学生には読めないかもしれない」からといって、その知的体系へのアクセス手段を収奪してもよい、ということにはならない。そうした、中学生がアクセスしうる知的体系の目録を準備することが、中学校における図書室の役割であると、僕は個人的に強く考えている。ゆえに、僕の立場から先の主張を見聞きすると「それよりもまずやるべきことがあるのでは？」（＝本来はラノベよりも先に「教養文庫」を整備することが先決のはずである）と感じてしまうのである。したがって<a href="http://twitter.com/numenunu" target="_blank">numenunu</a>氏の主張も（僕にとっては）全く説得力をもたない。</p>
<p>とはいえ、何も「図書室にラノベを入れるな」と主張しているわけではない。<span style="color:#333333;font-style:normal;line-height:24px;">僕は</span>中学校にラノベを導入するにはそれ相応の説得的な理屈が必要である、ということを強く指摘したいのである。その理屈はラノベの具体的なラインナップの話などでは全然なく、むしろその他の図書と比較して敢えてラノベを導入することの意義を問う極めて理念的な話である。<span style="color:#333333;font-style:normal;line-height:24px;">ある意味、教育機関に目録としてリストアップされた図書を売りつけることのみを至上命題とする</span><a style="font-style:normal;line-height:24px;" href="http://twitter.com/trumpe3128" target="_blank">trumpe3128</a><span style="color:#333333;font-style:normal;line-height:24px;">氏の理屈のほうが、筋が通っているとさえ言える。それに対して、改めて<a href="http://twitter.com/numenunu" target="_blank">numenunu</a>氏が主張しなければならない理屈とはどういうものか。</span></p>
<p>それは「子どもに〈物語〉を読ませる意義とは何か？」という性質の話に等しい。生徒に読ませるべき図書を選定する正当化ロジックとなるのが、俗にいう「権威」である。芥川賞受賞作や、直木賞受賞作や、児童文学などというのは大変分かりやすい。言ってしまえば、選書業務を行う大人が明確な指針を持ち合わせていなくても、目録に加えてしまえるといってよい。それに対し、ラノベ図書の推薦者が採りうる戦略というのは、その権威性への批判ではないだろうか。これは売り手側の<a href="http://twitter.com/trumpe3128" target="_blank">trumpe3128</a>氏、読者側の<a href="http://twitter.com/numenunu" target="_blank">numenunu</a>氏の双方が採りうる戦略である。「権威さえあれば、生徒に読ませるべきではない内容の物語を読ませても良いのか」、あるいは「何故それがラノベでは駄目で、文芸小説では許されるのか」という主張だ。これは説得される側の大人としても耳の痛い指摘である。そこで仮に「生徒には、生徒の学校生活の実情に即した物語を読ませることに、教育的な効果がある」と主張してみることにしよう。そうすると、提案者は当然選書に権威を利用することが出来なくなる。より的確にいうと、推薦者は提供する目録に一切の価値判断を行なってはならない、ということに等しい。何故なら、生徒が広範なラノベ図書の目録にアクセスできることに、生徒の多様な価値観を醸成する余地があるという趣旨の論旨から、正当化を行う理屈だからだ。</p>
<p>例えば先のエントリ中で挙げられている<a href="http://twitter.com/trumpe3128" target="_blank">trumpe3128</a>氏のエントリ（※注2）のベーシックプラン（『キノの旅』、『イリヤの空ＵＦＯの夏』、『半分の月がのぼる空』、『バカとテストと召喚獣』、「文学少女」シリーズ、『十二国記』）の提案に同意しないことができる代わりに、それを否定することもできない、ということになる。むしろ、既存の提案とそれを批判するようなラインナップに関して同時に選書を行うことがフェアだと言えるだろう。もし<a href="http://twitter.com/numenunu" target="_blank">numenunu</a>氏が<a href="http://twitter.com/trumpe3128" target="_blank">trumpe3128</a>氏の提案を、説得的に否定したいのであれば、これに代わる新しい理屈を、「生徒」の心情に訴えかける形ではなく、「大人」の公共的な判断に問いかける形で、説得力のある提案を自ら行わなければならないものと考える。でなければ、この話題は机上の空論として、氏の主張は広範には受け入れられないことだろう。そろそろ結論へと入っていく。</p>
<p>本エントリでは、<a href="http://twitter.com/numenunu" target="_blank">numenunu</a>氏の主張の取る立場の根本的な拙さを指摘し、そもそも中学校にラノベを導入するにはそれ相応の説得的な主張が必要であることを、ラノベの代わりに選書されうる（トレードオフの関係にある）図書（ここでは「教養文庫」とした）との関係から述べた。そもそも氏は何故ここまでラインナップの内容に固執するのだろうか。積極的に行動する熱心な生徒であれば自分で書籍を購入するであろうし、そうでなければ図書室の既存の蔵書の範囲内で、クラス内に図書の感想を述べ合う交流が生まれるだけだろう。それに視野を広げれば、地域の公立図書館との連携の道を模索してもよい。つまり問題の本質はラノベのラインナップではなく、中学校にラノベを導入するとはどういうことかという議論である。それを行わずして、有意義な議論が展開されているとは言い難い。最後に僕の立場から、自分の主張も簡潔に述べておきたいと思う。</p>
<p>先にも述べたように、僕も中学校の図書室にラノベが置かれること自体は否定しない。むしろ歓迎したい節もある。しかしそれよりも重要なのは、ある種の「知的体系」へのアクセスの場としての「図書室」であり、そもそも地方公共団体がそれを自主的に整備していくべきである、という主張である。僕自身は地方の公立中学校出身であり、地方のそれ、つまり文化資本が充分には整備されていない現状を目にしてきた。それはある種の「格差の再生産」とも繋がりうる。整備された目録をどう扱うかは生徒個人の手に委ねられているにしても、そこへのアクセスが可能かどうかという、「機会の平等」は保障されているべきだ。その観点に矛盾しない範囲であれば、僕は図書室にラノベが置かれること自体には賛成も反対もしない。</p>
<p>しかしそのラノベ図書の目録にもまた、ある種の公共性が担保されているべきであろう。</p>
<p>【注釈】</p>
<p>注1．　http://togetter.com/li/421250　2012年12月14日閲覧</p>
<p>注2．　http://trumpe3128.blog.fc2.com/blog-entry-135.html　2012年12月14日閲覧</p>
<div></div>
<br />カテゴリー:<a href='http://tshikimi.wordpress.com/category/column/'>column</a>  <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=tshikimi.wordpress.com&#038;blog=43004001&#038;post=185&#038;subd=tshikimi&#038;ref=&#038;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>Google+のイベント機能について</title>
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		<pubDate>Sun, 02 Dec 2012 01:02:53 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tshikimi</dc:creator>
				<category><![CDATA[column]]></category>

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		<description><![CDATA[長らく放置していたGoogle+のアカウントを先日削除した。 個人的に考えている &#8230; <a href="http://tshikimi.wordpress.com/2012/12/02/google%e3%81%ae%e3%82%a4%e3%83%99%e3%83%b3%e3%83%88%e6%a9%9f%e8%83%bd%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a><img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=tshikimi.wordpress.com&#038;blog=43004001&#038;post=126&#038;subd=tshikimi&#038;ref=&#038;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>長らく放置していたGoogle+のアカウントを先日削除した。</p>
<p>個人的に考えている、自分にとって心地の良いネットコミュニケーションの形態とそぐわなかったこともあり、もともと積極的に使用していなかったソーシャルメディアであったが、それでもサークルの構成員から通知される「イベント」については頻繁に目にしていた。全くの無反応を貫いていたのは全面的に僕が悪いので、関係する個人には具体的な名前を挙げずにここで一旦詫びを入れておく。お誘い頂いたのに答えることができずに申し訳なかった。またつながる機会があれば直接お話しさせて頂くことにしたい。それはさておき、今回の話の種はこの「イベント機能」についてである。</p>
<p>おそらく、ごく内輪のクローズド・サークルにあってはこのようなサービスは大変使い勝手がよいのだろう。主催者は頻繁にメーリングリストを参照して一々文章を書き上げなければならず、定型文は種々の異なるイベントに対してあまり汎用性があるとは思えない。それをシンプルなUIを操作するのみで予め登録済の「サークル」に対して一括送信できるのは、イベントを主催するにあたって大変「招待コストが低い」。招待された人間にとっても「システムからの通知」は一種のコード化がなされており、具体的なメールの文面がなくても意味を理解することができる。しかし僕はこの「イベント機能」、つまり個人の招待プロセスをシンボライズするUIに馴染めなかった。</p>
<p>端的にいうと、システムから送信されてくるメッセージが「声として感じられない」のである。これは実に本質的な問題だ。常日頃からイベントの主催者にイベント内容について聞かされており、簡潔な出欠確認のためだけに用いられているのであれば僕は躊躇なく送信ボタンを押していることだろう。大学サークルや、個人の友人関係で予めアカウント情報を共有して使用するのであれば何の問題も無かった。しかしこれが実名を知らず、居住地も知らないネット上のコミュニティとなると話は別である。僕はどうしてもこのシステムからの通知に据わりの悪い違和感を感じずにはいられなかった。イベントとは無関係なイメージ画像も違和感に拍車をかけている。システムがシンボライズするのはこの架空のイメージであり、よくわからない画像のキャプションとしてイベント詳細のテキストが意味を投錨している。僕にとって招待者たちは決して知らない人物ではなかったが、日常の友人たちと比べれば依然として「識らない人物」であり、システムに表象されたイメージと実際のイベントへのイメージの不一致が「得体の知れない不気味さ」として映った。送信ボタンを押してしまうと、一体僕は「何処へ」連れ去られてしまうのだろうか？</p>
<p>Google+とはなんてことはない、「実生活で予めつながった」人同士のためのソーシャルメディアであり、僕にとってはつながりの「距離」を連想させる孤独なサービスであった。したがって、僕は人とやりとりをする手間を惜しまずに、改めて一件ずつ個別に声掛けしていく所存である。</p>
<br />カテゴリー:<a href='http://tshikimi.wordpress.com/category/column/'>column</a>  <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=tshikimi.wordpress.com&#038;blog=43004001&#038;post=126&#038;subd=tshikimi&#038;ref=&#038;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>ライトノベルに関する覚書</title>
		<link>http://tshikimi.wordpress.com/2012/11/30/memorandum-of-lightnovel/</link>
		<comments>http://tshikimi.wordpress.com/2012/11/30/memorandum-of-lightnovel/#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 29 Nov 2012 18:50:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tshikimi</dc:creator>
				<category><![CDATA[column]]></category>
		<category><![CDATA[criticism]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://tshikimi.wordpress.com/?p=113</guid>
		<description><![CDATA[ライトノベルにまつわるエントリを続けて二本投下したが、ここは批評系合同誌のような &#8230; <a href="http://tshikimi.wordpress.com/2012/11/30/memorandum-of-lightnovel/">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a><img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=tshikimi.wordpress.com&#038;blog=43004001&#038;post=113&#038;subd=tshikimi&#038;ref=&#038;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>ライトノベルにまつわるエントリを続けて二本投下したが、ここは批評系合同誌のような対象読者層が想定された場ではなく、もう少し軽い文章も載せていったほうがいいだろうとふと思い立ったので、先のエントリの論点を簡単に要約しておきたいと思う。</p>
<p>(1)　<a title="『このライトノベルがすごい！2013』のDTPデザインの話" href="http://tshikimi.wordpress.com/2012/11/27/konorano2013/">『このライトノベルがすごい！2013』のDTPデザインの話</a> 2012年11月27日</p>
<p>(1)では具体的を挙げて1冊のムック本に関する批判点を指摘したが、僕が問題意識として考えているのはもう少し射程の広い話である。いま巷で流通している「ライトノベル」について、具体的な定義付け及び超越的な視点からの充分な総括が不足していることを(1)では述べた。さらに、この媒体の性質はどうやら商業的な要請からレッテル貼りとして流通した呼称でありそうなことが、(1)の結論によってみえてきた。売り手（≠作者）が売場の都合上一括りに展開するために「ライトノベル」のような分類が必要であっただけで、いわばその一つのレッテルが好意的に受容された結果、物語の書き手及びその刊行者が模倣によって先の土壌に合わせて物語を供給し始めたと考えたほうが自然だ。それによって「規範」にそぐわない作品は自然に淘汰され、読者の選好は必然的に保守化していく。もとよりこれは一定の需要層に売るための分類なのであって、「物語の類型」の分類ではないのである。それゆえに先の観点からではなく、共通する土壌から醸成されたディスコース（言説／記述）の表現手法に着目してライトノベルを解題したメイナード（2012）の先見性は注目に値する。つまり、定義するべきは「ライトノベル」というジャンルではなく、それを受容する「ライトノベル読者」の性質についてなのである。</p>
<p>(2)　<a title="「脱＝ライトノベル読者」宣言　序説" href="http://tshikimi.wordpress.com/2012/11/29/anti-lightnovel-readers/">「脱＝ライトノベル読者」宣言　序説</a> 2012年11月29日</p>
<p>そのような問題提起を、(2)では理念的に行った。メイナードの「ライトノベル読者」の基礎付けに延長線をひいて、特にバウマン（2001）のリキッド・モダニティ概念から僕なりにラノベ読みの生態を読み取らせて頂いた。バウマンが面白いのはやはりポストモダニティの意味で「リキッド・モダニティ」という語彙を用いている点である。いわゆる「ポストモダン」概念の性質をごくごく簡単に述べると、要するに「突然降って現れた」潮流転換である。それこそ突然の近代の退潮と、新しい大衆文化の基礎付けがリオタールの功績であり、日本においては東の仕事だったものである。しかしこれらは文字通り命脈の「断絶」である。そこをバウマンは近代の形状変化、というレトリックを用いて連続性で捉えている。バウマンの見方が優れているのは、現実の経済事象との紐付けを想定している点である。念のため述べると『リキッド・モダニティ―液状化する社会』（2001）の中でその点について踏み込んだ分析をしているわけではない。であるが「重い資本主義」と「軽い資本主義」のレトリックは要するに、リオタールの述べたような新潮流が「突然降って現れた」のではなく、現実の社会の経済構造の変化によって必然的に現れた、われわれ〈大衆〉の生の変化であることを述べているのだ。その転換点を僕なりのごくごく狭い知識の範囲で(2)で考察させて貰った（リベラリズムの文脈から捉えられるそれらの潮流転換として、具体的な統計資料を用いた詳細な分析はハーヴェイ（2007）の仕事を参照されたい）。つまりは「ライトノベル読者」というのは、その中で徴候的に現れる〈大衆〉像を追うことで理解されるものとここでは考える。その上で僕が私的に「面白い小説」と巡りあうためには何が必要かと考えた結果が、「ライトノベル」という包括的な枠組への認識を個人の選好から除外せよ、という結論だった。</p>
<p>「ライトノベル読者」というのはまさしく、自分でライトノベルを読んでいるのではなく、むしろ「ライトノベル」のほうから「規範的な物語」を読まされているのである。であるから僕は「ライトノベル読者」を脱する、とわざわざ明文化して書いたのだ。「ライトノベル」の小説ではなく、一冊の小説を”それとして”〈読む〉ということ……。リキッド・モダニティにおける「個人」という主体が消費行動に実存を求めるという構造が存在する以上「ライトノベル」という名のバベルの塔は各人を魅了し続けるであろう。しかしその団結はいずれ崩れ去る運命にあるのである。「ライトノベル」という実像を持たない全体に気をとられている場合ではない。「規範」による〈物語〉の淘汰はもう既に始まっている。われわれは、個人が各々の確固たる「洞察」をもって「一冊の小説」に当たって行かなければ、バベルの塔の崩壊を食い止めることはできないであろう。</p>
<p>【読書案内】</p>
<ul>
<li>泉子・K・メイナード『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4625434483/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=7399&amp;creativeASIN=4625434483&amp;linkCode=as2&amp;tag=nonbiriikouco-22">ライトノベル表現論: 会話・創造・遊びのディスコースの考察</a><img style="border:none!important;margin:0!important;" alt="" src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=nonbiriikouco-22&amp;l=as2&amp;o=9&amp;a=4625434483" height="1" width="1" />』 明治書院、2012年</li>
<li>ジークムント・バウマン『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4272430572/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=7399&amp;creativeASIN=4272430572&amp;linkCode=as2&amp;tag=nonbiriikouco-22">リキッド・モダニティ―液状化する社会</a><img style="border:none!important;margin:0!important;" alt="" src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=nonbiriikouco-22&amp;l=as2&amp;o=9&amp;a=4272430572" height="1" width="1" />』 森田典正訳、大月書店、2001年</li>
<li>デヴィッド・ハーヴェイ『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4861821061/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=7399&amp;creativeASIN=4861821061&amp;linkCode=as2&amp;tag=nonbiriikouco-22">新自由主義―その歴史的展開と現在</a><img style="border:none!important;margin:0!important;" alt="" src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=nonbiriikouco-22&amp;l=as2&amp;o=9&amp;a=4861821061" height="1" width="1" />』 渡辺治監訳、作品社、2007年</li>
</ul>
<br />カテゴリー:<a href='http://tshikimi.wordpress.com/category/column/'>column</a>, <a href='http://tshikimi.wordpress.com/category/criticism/'>criticism</a>  <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=tshikimi.wordpress.com&#038;blog=43004001&#038;post=113&#038;subd=tshikimi&#038;ref=&#038;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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		</media:content>

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	</item>
		<item>
		<title>「脱＝ライトノベル読者」宣言　序説</title>
		<link>http://tshikimi.wordpress.com/2012/11/29/anti-lightnovel-readers/</link>
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		<pubDate>Thu, 29 Nov 2012 05:25:59 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tshikimi</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>

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		<description><![CDATA[僕は今でこそ読書量は激減してしまったが、現在でもそこそこライトノベルを読んでいる。これでもライトノベル作品自体は好きだし、愛好しているといっていい。しかしごく個人的な感想を述べさせてもらうとすれば「ライトノベルが好きな自分」というアイデンティティはすっかり消滅してしまったように感じられる。そして他人のそうした意識に苛立ちを感じ始めている自分の姿に驚きを隠せないでいるのだ。さしあたってまずは「ライトノベル読者」の基礎付けによってその像を明らかにし、何故そこから「脱するべきなのか？」を書き連ねていく。 <a href="http://tshikimi.wordpress.com/2012/11/29/anti-lightnovel-readers/">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a><img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=tshikimi.wordpress.com&#038;blog=43004001&#038;post=99&#038;subd=tshikimi&#038;ref=&#038;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>僕は今でこそ読書量は激減してしまったが、現在でもそこそこライトノベルを読んでいる。これでもライトノベル作品自体は好きだし、愛好しているといっていい。しかしごく個人的な感想を述べさせてもらうとすれば「ライトノベルが好きな自分」というアイデンティティはすっかり消滅してしまったように感じられる。そして他人のそうした意識に苛立ちを感じ始めている自分の姿に驚きを隠せないでいるのだ。僕は、前の「<a title="『このライトノベルがすごい！2013』のDTPデザインの話" href="http://tshikimi.wordpress.com/2012/11/27/konorano2013/">『このライトノベルがすごい！2013』のDTPデザインの話</a>」というエントリで次のように述べた。</p>
<blockquote><p>僕はここの「目利き」の評価軸が既に信じられなくなってしまっている。彼らの選定基準もまた、「ライトノベル読者」としての「規範」を参照した保守的なものなのではないだろうか、という問題提起をさせて頂きたい。これについてはいずれまた別の機会に詳しく書くつもりだ。</p></blockquote>
<p>端的に言って、「目利き」の優越意識が一個人のライトノベル愛好者として鬱陶しいのである。今回はこれについて詳しく書いていきたい。</p>
<p>まずは「ライトノベル」とは一体どういう性質のものなのか、という点から確認していこう。</p>
<p>ライトノベルの特徴について、日本語学・言語学研究者の泉子・K・メイナードはライトノベルに関する研究書『ライトノベル表現論: 会話・創造・遊びのディスコースの考察』（2012）のまえがきで「ライトノベルはあたかも話すように語り、創造的な行為を通して言語で遊び、しかも視覚的なイメージを呼び起こすディスコースである」と述べている。そのような特徴をもつ言説をメイナードは特に「会話体文章」（2012：39）と呼んでおり、さらに「ライトノベルの場合は、読者の読み方自体に特徴がある」（2012：33）と主張している。</p>
<p>ここからも読み取れる通り、ライトノベルという媒体を規定する上で「ライトノベル読者」を的確に捉える必要があることは窺えるだろう。その上で僕の問題提起はこうだ。「ライトノベル読者」、つまり「ラノベ読み」という排他的な選民意識を捨て去って、ライトノベルという枠組ではなく「一冊の小説」として作品と向い合っていけ、という主張である。さらにいえば「ライトノベル」という記号系は商業上の要請から生まれた一種のレッテルであり、決して自らの身の上を措定する自己像の投影先ではないのだ。これらの主張を展開していく上で、まず何よりも先に「ライトノベル読者」というのがいかなる立ち位置に置かれているのかという認識を共有しなければならない。その上で前述のメイナードによる基礎付けが有益なので簡単に要約する。</p>
<p>まずリオタール、ジェイムソンらの活躍によって広く受け入れられることとなった術語に「ポストモダン」があるが、日本のポストモダンの時代における「大きな物語の衰退」（東：2007）と同調する形で文学の志向するリアリズムは「私」という存在が現実を写生する自然主義的リアリズムから「キャラクター」の語り手が虚構世界を写生するまんが・アニメ的リアリズムへの転換が起こる。ポストモダンを起点にこのリアリズムの系譜の中でジャンルの細分化が起こり、派生的なジャンルとしての「ライトノベル」はひとまず『スレイヤーズ』シリーズが勃興した90年代に成立したものとしてみなすことが提案される。ところでメイナードは「ジャンル」という言葉を自身による定義と合わせてバゼルマン（2002）の用いる意味でも使う。ジャンルとはコミュニケーションのための社会的なスペース、つまり分類行為自体を指すのではなく、一つの区分の中で行われるコミュニケーション行為の全体及びそのための場を指すという主張である。これによって、「ライトノベル」というジャンルは、現実の世界に指示対象をもたない記号系であるシミュラークル（ボードリヤール：1981）として構築された虚構世界がライトノベル読者というポストモダンの一主体をアフォード（彼らの実存に関わる認知の対象を提供）することで、彼らが相互にコミュニケートする社会的スペースとして基礎付けられる。この消費される対象としての虚構に関してメイナードは、特に中間項としての社会を排した「セカイ系」（東：2004）の物語を仮定し、これを欲し、積極的に受容しようとする共同体としてのライトノベル読者像を提起するべく、彼らをバウマンの云う「リキッド・モダニティ」に落とし込もうとする。</p>
<p>メイナードによる基礎付けは以上である。</p>
<p>それにしてもリオタールを便宜的にひいているメイナードが、敢えてバウマンを援用してくるのは興味深い。というのも、バウマンにとってリキッド・モダニティという語彙はポストモダニティをパラフレーズするものだからだ。もう少し詳細にみていこう。バウマンはこの術語を定義するにあたって、(1)でまず「流体の特徴」を描写している。</p>
<blockquote><p>(1) 『リキッド・モダニティ―液状化する社会』 4</p>
<p>流体は簡単に移動する。流体は「流れ」、「こぼれ」、「はねちり」、「溢れ」、「みなぎり」、「しぶきとして飛び散り」、「垂れ」、「滲みだし」、「漏れる」。個体とは違い、流体は簡単には止められない。</p></blockquote>
<p>このイメージがまさしく重要である。バウマンにとって「新しい近代」は近代的コンテクストという命脈の断絶ではなく、固体(ソリッド)から流体(リキッド)への形態変化の連続性で捉えられている。さらにバウマンはソリッド／リキッドの対立軸に重ねて「重い資本主義」と「軽い資本主義」を対置する。「重い資本主義」とはつまりケインズ的なイギリス型福祉国家の時代である。金融資本を国内にしばりつけ、国家が市場経済に介入することを是とする介入主義的政策を中心に据え、ある種の「集産主義」（個人よりも集団的利益を優先する理論）体制を敷く代わりに、経済活動の活性化によって充実した社会保障を実現することでその責を負い、そうしたセーフティーネットの内側に国民を「固定」する社会システムである。個人はこの枠内において自由を保障される。要するにここでは経済的効率と社会正義と個人的自由の統合が構想されていたともいえる。それに対して「軽い資本主義」はおそらく80年代の「サッチャリズム」や「レーガノミックス」と呼ばれた自由放任的な方面への政策転換、およびそのために準備された政治的プロパガンダと無関係ではない。これら「ネオ・リベラリズム」による新しい国家体制はバウマンの語彙を借用すれば〈ソリッド〉な福祉国家を〈液状化〉させたと言えそうだが、それらの思想の先駆者であり、改革の根拠とされたハイエクは、端的に言えば市場システムによって形成されるとする自生的秩序に信頼を置きすぎていたのだ。国家間を自由に駆け巡るようになった資本の流体は、しかし実際には目に見える社会的スペースから〈漏れ〉出している。深化する国際寡占競争の只中を流れる資本は、合理的な市場にではなく「税金の掛からない場所」へと〈流れこむ〉のである。成長しすぎた経済権力は、市場の自生的秩序もまた〈液状化〉させる。ネオ・リベラリズムに依拠した国家体制の正体は、そのツケを「国民」に背負わせる社会システムにほかならない。「軽い資本主義」の下では個人的自由の概念が自由企業の擁護にすり替えられる。さらに、ここにある非＝倫理性を「国民」へと問いかけるべく、「道徳」を体制正当化の根拠におく政治的プロパガンダが、アメリカ型新保守主義（アメリカ系政治哲学の文脈における「保守」概念はリベラリズムの一種）である。余談となるが、虚構世界のキャラクターという語りの主体を通じて、自らがこの経済権力を掌握しようと主張することで、逆説的に現代資本主義の欺瞞を暴露するローティ的な意味でのアイロニストがライトノベル作家の至道流星である。『羽月莉音の帝国』ではネオ・リベラリズムが内包した統制的権力への志向が全体主義的傾向を帯びていく過程を、『大日本サムライガール』では右翼思想とアメリカ型新保守主義が共に権威主義を志向している点を如実に描き出しているように読むことができる。ハイエクに福祉国家批判の口実を与えたナチズム、ファシズム、共産主義の記憶が、姿形を変えて再び蘇ってくるようだ。モダンに置き去られた全体主義の〈固形物〉は〈流体〉に形を変え、「国民」の目を覆って耳の穴へと入り込み、今まさに口の中へと流入して、彼らを窒息させようとしている。(2)でカール・ポランニーの言葉を借りて自由主義的ユートピアニズムの行き着く先をまとめるハーヴェイを引用してリキッド・モダニティに関する注釈を終えたい。</p>
<blockquote><p>(2) 『新自由主義　その歴史的展開と現在』 53-54</p>
<p>「自由主義的ユートピアニズムのビジョンを維持する唯一の方法は、力の行使、暴力、権威主義である。[…]自由主義的ないし新自由主義的なユートピアニズムは、権威主義あるいは露骨なファシズムによって打ち砕かれる運命にある」</p></blockquote>
<p>話をライトノベルへと戻そう。要はこのリキッド・モダニティという近代史観がどのようにライトノベル読者を規定するヒントとなるか、である。液体的近代、つまり「軽い資本主義」の下で核心となるのは、個人の領域に依拠した「連続的近代化作業」としての消費衝動である。近代人は充足することを知らない。ある種の信仰の消滅とともに近代人は存在の「自立」を得たが、代わりに自己改良の無限の可能性に振り回されることとなった。そしてモダンにおいて一度形作られたものが再び破壊されるのがリキッド・モダニティの時代である。ここでは「軽い資本主義」のプレイヤーたちは充分な個人資産と共にその責務を逃れ、近代化作業の責任は下部層の人間、つまり納税者が負わされる。大雑把にいえば、福祉国家的な社会保障のセーフティーネット幻想が瓦解し、上層部のビジネスエリートから「負債」を押し付けられた「個人」は、近代の時代によって宿命づけられた個人化の作業を今もなお迫られて続けている。「自立」によって得たものとは、言い換えれば「居場所の無さ」であると言えるだろう。ここにあるアンビバレントな感情が相反感情である。その中で自らのアイデンティティを規定する拠り所となる共同体が、「ライトノベル読者」にとっては「ライトノベル」というジャンル＝社会的スペースであると想像することができる。そこでは彼らのジャンルを受け入れるように期待されるコミュニケーションが存在し、その了解の上で成り立つ空間は一種の文化圏を形成している。</p>
<p>ここで「彼ら」という言葉を使ったことに「僕」の主張に至る核心がある。</p>
<p>僕の問題意識とはつまり、言い換えれば「彼ら」の文化圏への懐疑である。「セカイ系」的虚構世界を消費するということ、つまり現実の社会体から目を逸らして盲目的にシミュラークルの世界を生きる「ライトノベル読者」像を素描するメイナードの基礎付けは的確であると評価することはできる。しかしそれらは同時にライトノベルのもつ多様性・多義性を捨象しかねない側面を含んでいる。ということはつまり、実際ある種の多義性の上で成立しているライトノベルという媒体を鑑みると、メイナードの基礎付けは正しくないのだろうか？　いや、「彼ら」は事実存在していると僕は考える。そこではバウマンの云う新しい近代の個人である「ラノベ読み」として選民意識を振りかざしながら、その実態は「買い物の記号学」に振り回される一消費者として、生息しているのである。そこで彼らは総じて盲目的な消費に甘んじている。大量の虚構世界を消費しながらも個々人の趣向は先鋭化するどころかみるみる保守化していき、それを自覚しない「無邪気」な彼らのコミュニケーションスペースはアドルノがかつて云ったようなあの「洞察」を、排斥してしまう。</p>
<p>そのような集団にあって、一人の「ラノベ好き」の立場から敢えて「異邦人」としてライトノベルの好みを表明していくということ。新しい近代のコミュニケーション空間において「声」を発する場所を確保するのは現代人の至上命題である。その実践としてまず僕は現実の社会体を見据えた上で虚構のシミュラークル世界を相対化して「洞察」していく立場をとりたい。その実践として僕は”非＝ライトノベル読者”として<span style="color:#333333;font-style:normal;line-height:24px;">具体的な</span>作品論を展開していくことになるだろう（注1<span style="color:#333333;font-style:normal;line-height:24px;">※</span>2012年12月22日追記）。「ライトノベル読者」というマジョリティ集団の連帯意識に異議を唱えるということ……。そのためには逆説的だが、「ライトノベル」に関するいかなる定義付けも棄却していかなければならない。</p>
<p><em>僕は「ライトノベル読者」ではない。　――たまたま出逢った私的な一冊の愛好者である！</em></p>
<p><em>同様に「ライトノベル」はコミュニケーションのための社会的スペースではない。　――それは”買い物の記号学”の記号系である！</em></p>
<p>宣言しよう、</p>
<p><strong>脱＝ライトノベル読者、ここに在りと。</strong>ちっぽけな本読みのプライドなぞ捨ててゆけ。</p>
<p>【追記】</p>
<p>要約版を書きました。→「<a title="ライトノベルに関する覚書" href="http://tshikimi.wordpress.com/2012/11/30/memorandum-of-lightnovel/">ライトノベルに関する覚書</a>」 2012年11月30日9時03分</p>
<p>【注釈】</p>
<p>注1．</p>
<p>冬コミの3日目（12/31）東パ-28a、「思想と文学とサブカルチャー」の同人誌『<a title="同人誌『イルミナシオン』冬コミにて発売！" href="http://hallucinyan.hatenablog.com/entry/2012/12/22/193012">イルミナシオン</a>』に「「異邦人」としてライトノベルを読む」というタイトルで竹宮ゆゆこ『ゴールデンタイム』の作品論を寄稿しました。僕は現地に居ませんが、お立ち寄りの際は気にかけて頂ければ幸いです。是非とも宜しくお願いします。　2012年12月22日追記</p>
<br />カテゴリー:<a href='http://tshikimi.wordpress.com/category/criticism/'>criticism</a>  <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=tshikimi.wordpress.com&#038;blog=43004001&#038;post=99&#038;subd=tshikimi&#038;ref=&#038;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>『このライトノベルがすごい！2013』のDTPデザインの話</title>
		<link>http://tshikimi.wordpress.com/2012/11/27/konorano2013/</link>
		<comments>http://tshikimi.wordpress.com/2012/11/27/konorano2013/#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 27 Nov 2012 05:51:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tshikimi</dc:creator>
				<category><![CDATA[book]]></category>
		<category><![CDATA[column]]></category>

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		<description><![CDATA[いま手元にピンクの表紙のムックがある。メイド風のヘッドバンドをつけたイメージキャ &#8230; <a href="http://tshikimi.wordpress.com/2012/11/27/konorano2013/">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a><img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=tshikimi.wordpress.com&#038;blog=43004001&#038;post=61&#038;subd=tshikimi&#038;ref=&#038;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>いま手元にピンクの表紙のムックがある。メイド風のヘッドバンドをつけたイメージキャラクターが物欲しげにこちらをみている中々扇情的なデザインだ。巷にはライトノベル界隈を総括する『このライトノベルがすごい！』というムックシリーズがある。これはその最新号の『このライトノベルがすごい！2013』で、ここで毎年一年に一度発表される「ライトノベルBESTランキング」に乗った作品は、「箔がつく」といった雰囲気となっている。さて、今回はこれについて色々言いたいことがあるのだが、『このラノ』についての言及を見渡してみると、「ランキング」の順位や集計方法についての議論はあれど、誌面のDTPデザインについての言及は全くといっていいほどみない。商業誌とはいえ、ある種の「資料性」が認められる企画物なのであるから、全体を総括する視野と同様にその「見え」を規定する誌面デザインも重要だ。とはいえ、全くランキングに言及しないというのも要領を得ない記述になってしまいそうなので、まずは今年度のランキングに抱いた個人的な感想を簡単に記しておきたいと思う。</p>
<p>本ランキングの得票はホームページ上から投票した一般の投票者と、いわゆるライトノベルの目利きとして個別に参加している素人の投票者集団と、モニターアンケートで無作為に選ばれた中高生層の3つの異なる母集団から構成されている。そのウェイトの配分は毎度議論の争点になっており、去年はこのうち「目利き集団」のウェイトが異様に高く設定されたことが話題に上がった。しかし、編集上の意図があってそうしたなら同じレギュレーションを貫けば良いものを、今年度はまた配分を変更してしまったようである（注1）。その意図を類推する上で、本誌には次のような記述がある。</p>
<blockquote><p>(1)　『このライトノベルがすごい！2013』　169</p>
<p>本書を創刊した頃は[…]「隠れた名作」が話題になる余地が確かにあった。しかしここ数年は、刊行点数や読者の裾野の広がりなどによって、かつては見いだせていたはずのそれらの作品が埋もれたままになってしまっているように思えてならない</p></blockquote>
<p>なるほど、その問題意識は理解には及ぶ。それに続くのが次の(2)だ。</p>
<blockquote><p>(2)　『このライトノベルがすごい！2013』　169</p>
<p>本書では、そうした作品に少しでも光が当てられるよう、去年よりランキングのレギュレーションの見直しを図ってきた</p></blockquote>
<p>これは確かにいい心意気だ。しかし、見方を変えてみると(2)は、「集まった得票を元に、票数を確認しながらランキング結果を作り上げていく」という意味で言っているように読み取れはしないだろうか。そうすると編集部はランキングの結果を自由に調整することができるのだから、「ランキングの信頼性」もあったものではない。せめてウェイトの比重についての具体的な説明、および解釈の記述くらいは欲しいところだ。</p>
<p>そもそも(1)についても「新たな発見」みたいな話ではなく、よくよく考えてみるとごく当然の話である。「ライトノベル読者」というのも一つの文化圏を共有する一種の共同体だ。そのマジョリティ層がメディアミックス作品からラノベに流入した集団で占められると、おのずとマイナー路線は淘汰される。したがってマイナー路線を推す「目利き集団」の読み手は、自身の推す作品が浮上しなければ「目利き」の名声を得られないため、わざわざマイナー作品を推す誘因は消失してしまうと考えられる。その結果ますます共同体の「規範」意識が規定されて、選好が保守化していくという単純な話なのだ。であればこれは自然な「淘汰」なのではないだろうか。そういうことであれば、何もわざわざ「光を当てる」必要はないのだ。むしろ、表向きはホームページ投票者の得票オンリーで集計してしまったほうがより現状を反映した「クリーン」で信頼性の高いランキングになると判断することができる。</p>
<p>しかし「光をあてたい」という意識は、一読者としてわからなくはない。そこで取り沙汰されるのが「誰が『光をあてる』のか」という問題だ。それはつまり「目利き集団」の得票にほかならないのだが、僕はここの「目利き」の評価軸が既に信じられなくなってしまっている。彼らの選定基準もまた、「ライトノベル読者」としての「規範」を参照した保守的なものなのではないだろうか、という問題提起をさせて頂きたい。これについてはいずれまた別の機会に詳しく書くつもりだ（注2）。ここでは「目利き」の感性に懐疑を投げかける、という姿勢をひとまず表明しておくことに留めておく。そもそも、対象作品リストの作品全ての知名度が同一なものとして認知されていない以上、その中から本当に優れているタイトルに順位をつける「質的ランキング」ではありえないのだ。投票者は「自分の読んだ作品」の中でしか票を入れようがない。そして個人が読める本の冊数には限界がある。その中で「目利き」の投票傾向と「一般投票者」の投票傾向が何ら相関を示さないと仮定しても、そこに現れる結果は「どれだけ沢山作品を知っているか」の差異だけでしかなく、マクロな視点でみると大枠では選好の基準はそう変わらないのではないか、と冷静に推論を立てることは充分可能なように思われる。要約すると、仮に「一般投票者」が同じ「投票可能リスト」を共有していた場合、「目利き」の投票と相関関係が見いだせる結果になるのではないか、という主張だ。そもそも別枠で集計されている目利き、つまり「協力者アンケートトップ10」（2012：53）で挙げられているのもわずか10作である。はたしていまや1年で1000冊近く刊行されているライトノベル市場の中で、これらのタイトルがどれだけ影響を及ぼせられるというのだろうか。個人的には「目利き」の選好が有意な結果を及ぼしているとはとても考えられないのだが、これについては僕も深い関心を抱いているので異論があれば遠慮なく指摘して頂ければ幸いである。</p>
<p>さて、以上から本ランキングの有用性について疑問を呈させて貰った。「選者の目」という恣意性のある票の合成が行われている以上、その正当性を説得的に主張する記述および、そのための視座を本書の中に見出したくなる。そこで本書が情報誌として、ある種の一貫した脈略を持ち合わせているのか、という話へともっていきたい。一冊のムックとして目がいくのはやはり、誌面構成とその「見え」を規定するDTPデザインである。これらの中に「選者の目」を統括するヴィジョンが読み取れるのであれば、本ランキングの結果も適切な編集が下されていると判断し、意義の見いだせる得票結果として認める立場をとりたい。しかし結論から言ってしまえば、『このライトノベルがすごい！2013』は例年に比べそれに相応しくない誌面構成であると言わざるを得ない。実際、見開き単位ではデザイナーの苦労が偲ばれる凝ったデザインではあるのだが、先に指摘した包括的な視野の欠如を強く読み取ってしまう。正直、私的な感想を述べれば「通読するに堪えない」。</p>
<p>DTPデザインに関して僕は本職の者ではないので、読者目線から何が重要であると考えるのかをここで簡単に述べさせて頂く。ムック本におけるページレイアウト、および表意デザインの統制には特集ページの話題のコンテクスト性を視覚的に明示する機能があると僕は考えている。もとより話題が散漫で読者が自分の関心のあるページだけ拾い読みすればそれでいい雑誌であれば、それぞれ趣向を凝らした誌面デザインであってもよいだろう。しかし本書は企画物である印象が強い。それにしてはライターの書いている文章の趣向、端的に言えば想定読者層にはバラつきがあるように感じられる。ランキングの結果だけをみたい読者に対しても詳細な分析記事を無理やり読ませなければならない謂れはない。だからといって記載する必要が無いというわけでは全くない。本ランキングには恣意性のある編集意図が見え隠れしている以上、それを説明する必要性は生じるものと考える。しかしそれをわざわざ読み難い誌面構成および段組で組んでいるように感じられるのは穿ち過ぎだろうか。読者目線に立つと、そもそも誌面構成のレベルで話題の共通性がないような場合、むしろ誌面デザインを統一性をもたせて強制的に「同一コンテクスト」感を強調したほうが読み易いように思われる。</p>
<p>次に注目したいのは「特集のコンテクストの重さ」と「視線の誘導」という観点である。本書には簡単に分類して「軽い記事」と「重い記事」がある。特に前者は版権イラスト素材を多様しており、同時に大きな文字で段組されているが、後者は誌面の節約のためにぎりぎりまで詰めた段組を施している。この切り分け自体に異論はない。しかしこのように大きくテイストが異なる以上、両者の間で「視線の誘導」を行う誌面の導線に断絶があることが大変気になってくる。それに記事のコンテクスト性の多寡に大きなギャップがある以上、「特集の配列」は大いに重要な要因なのだ。ここでは『このライトノベルがすごい！2013』（以後『2013』と表記する）と『このライトノベルがすごい！2012』（以後『2012』と表記する）を簡単に比較することで面白い相違が読み取れたので簡単に紹介しておきたい。興味が無い方は次の2節は読み飛ばして頂いて良い。</p>
<p>『2012』は冒頭のランキング発表からイラストレーター部門へ入り、一位のブリキ氏特集からイラストコーナーへと突入して『僕は友達が少ない』の情景が自然と喚起され、以下2位-10位の発表の後にカントク氏のイラストギャラリーへと繋がれて特定作品の虚構イメージへと誘われる好感のもてる導入だ（2011：2-21）。そこからライトノベルキャラクターを紹介していく「キャラクターズピックアップ」が間に入って、本命の各種ランキング関連の記述が続く。この後が特に良い。アサウラ氏のインタビュー（2011：62-69）から書店売上ランキング（2011：70-75）に繋がって、縦の眼球の動きを維持したまま文章を読ませる構成となっている。間に「目利きコーナー」（2011：76-79）の横の段組が入るが、特集のコンテクストの重さの釣り合いがとれており、まだ頭は「文章読みモード」のまま、さがら総氏インタビュー（2011：80-85）に入ってブックガイド（2011：86-165）と、通読を意識した無理のない紙面構成でストレスなく読める。誌面見開き、右上の一番真っ先に目に入る空間にコンテクストの範囲を規定する情報の提示が多くにあり、文字を追っていたフォーカスの先が急にどこかへ飛んでしまうということもない。</p>
<p>しかし『2013』は全然誌面の構成が違う。BESTランキングまとめの見開き2面（2012：50-53）の次にいきなり段組の違う山形石雄氏インタビュー（2012：54-63）が入り、ランキングの詳細を読んでいたはずがそのコンテクストが切断されてしまう。インタビューが終わると部門別ランキング（2012：64-71）に復帰し、「目利きコーナー」（2012：72-75）と繋がれるが、本文一文字目の始まりの位置がどのページもばらばらで目で文字を追うだけで一苦労だ。これだけ段組も視線誘導も異なるページが続くと、もはや「誌面の導線」という水準ですら無くなってくる。極めつけはそのすぐ後、フォント、文字サイズ共にバラバラの「心が震えた名セリフ！」（2012：76-81）。ここまででたらめな段組を続けてみるともう冊子を放り出して壁に投げつけたくなってしまう。こういうデザインだとわかってはいても、とてもじゃないが「名セリフ」の一つ一つを読んでいこうという気にはならない。本当に読者に誌面を読ませる気があるのか思わず首を捻ってしまう。その後にブックガイド（2012：82-159）が続くが今まで気にならなかった細部の段組も気になり始め、落ち着かない気分のまま最後まで読み切ると、「売り上げランキング」（2012：160-165）に繋がれるが時既に長文を読む気力は失われている。そういうモチベーションのまま読むのが冒頭で引用した「ソーカツ」（2012：166-169）である。ライトノベル情勢を明文化しておく意義は資料的価値を考慮すれば理解できるが、具体的な考察が欠けており、どうやら編集部も全体像を追えているわけでは無さそうなことがぼんやりと伝わってきてしまう。今まで読んできたランキングは一体何だったのか、という話だ。</p>
<p>そして極めつけは「キャラクターズピックアップ」（2012：20-32）のやっつけトリミングである。素材の問題もあるので強くは言えないが、それにしても絵の端が切れ過ぎの酷い切り抜きではないだろうか。文字の段組も見開きごとにバラバラで、『2012』と比較するとここの出来が一番差があるようにさえ思えてくる。ところで日本語学・言語学研究者の泉子・K. メイナードはライトノベルに関する研究書『ライトノベル表現論: 会話・創造・遊びのディスコースの考察』（2012）の中で次のような興味深い指摘をしている。</p>
<blockquote><p>(3)　『ライトノベル表現論: 会話・創造・遊びのディスコースの考察』　262-263</p>
<p>11.1.2　投錨とリレー</p>
<p>ここで、バーバル記号とビジュアル記号は、異なったシステムを交錯し、融合することで相乗効果をあげるというBarthes（1977）の研究に触れておこう。Barthesは投錨（anchorage, anchoring）とリレー（relay）という表現でその関係を二分する。</p>
<p>[…]</p>
<p>ライトノベルの文章とカバーデザインは、新聞に記載される写真とキャプションの投錨関係というより、映画のようなリレーの関係にある。バーバル記号（本文）とビジュアル記号（イラスト）が何重にも重なり合い、融合し合いながら、全体として相乗効果をもたらしているからである。</p></blockquote>
<p>メイナードの指摘に便宜上ひとまず同意を示すとして、これらは先に挙げた「キャラクターズピックアップ」のコーナーに言及する上で有益であろう。いわば、ライトノベルのキャラクターはイラストと本文の記述が相互的に作用し合って、動的な時間感覚の中で表象される。それも非常に強度のある表象だ。本来的にそういうものとしてのみ、ライトノベルの中の個別のキャラクターのイメージは理解されると言ってよい。それに対して「キャラクターズピックアップ」の記述は投錨的なものに留まる。投錨というのはイラストと、それに対して説明的な機能をもつキャプションとの関係のことだ。このキャプションは確かに「キャラクター」を説明する機能はある。しかしこのイラストが端で途切れているというのはどうか。むしろこの「途切れたイラスト」を「説明的キャプション」が投錨する「キャラクター」は、リレー的な関係で理解される本来的なキャラクター表象に対して差異あるものとして受け止められはしないだろうか。特に「途切れたイラスト」は「作り物」感を連想させる分没入およびイメージの形成にとって有害である、とさえ言える。たとえ編集者がメイナードの研究書を抑えていなかったとしても（そう考えたほうが自然ではあるのだが）、普通に考えて「仕事のクオリティ」として問題がある水準であることには気が回りそうなものである。これらを綜合して「キャラクターズピックアップ」のコーナーを三度読みなおしてみると、これはいささか混乱した「キャラクターの標本展覧会」の様相を呈しているように思えてならない。こうしたライトノベルキャラクターへの洞察および配慮の欠如から鑑みても、『このライトノベルがすごい！2013』には厳しい意見を投げかけざるを得ない。</p>
<p>そろそろ結論をまとめていこう。本ムックには前年度とは異なるランキング集計のレギュレーションが適用されており、それを説明する説得的な記述が見当たらない点と、そもそも商業誌のムック本として通読するに堪えないような誌面デザイン上の不備が『2013』には見受けられることを指摘してきた。さらにライトノベルキャラクターへの認識一つとっても、やや不安の残る一面を浮き彫りにしている。これらの意見は何も純粋に本書を手にとってガイド通りにランキングの本を手にとりたいと願う読者層の心意気をくさすものではない。しかしそれと切り分けて、冊子の出来については現実的な判断が必要であると僕は考えている。なぜここまで固執するかというと、それは本書がライトノベルという一つの文化圏を代表するものとして権威付けがなされているからだ。本書のランキング順位は書店における作品展開である意味「政治的」に利用されている。いや、むしろそれこそが本書の存在意義なのだと言えるのかもしれない。このようなムック本の「方向付け」によってライトノベルを手にとった読者が、その印象をもとに作品を生産して次の世代のライトノベル作家が生まれていく――このようなプロセスの中で、ある文化の「再生産過程」として、そこに『このラノ』が食い込んでいるからこそ、ここまで深刻に危惧しているのである。</p>
<p>僕は「ライトノベル」の作品そのものが好きなのであって、好き好んでこういう議論がしたいのではない。そろそろ純粋に作品だけを話題にすることに徹したい今日この頃である。</p>
<p>【注釈】</p>
<p>注1．http://togetter.com/li/410148　2012年11月20日閲覧</p>
<p>注2．書きました。→「<a title="「脱＝ライトノベル読者」宣言　序説" href="http://tshikimi.wordpress.com/2012/11/29/anti-lightnovel-readers/">『脱＝ライトノベル読者』宣言　序説</a>」</p>
<br />カテゴリー:<a href='http://tshikimi.wordpress.com/category/book/'>book</a>, <a href='http://tshikimi.wordpress.com/category/column/'>column</a>  <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=tshikimi.wordpress.com&#038;blog=43004001&#038;post=61&#038;subd=tshikimi&#038;ref=&#038;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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		<title>パランプセストの上で世界の痕跡をたどる物語 ――『ヱヴァンゲリヲン新劇場版：Q』感想</title>
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		<pubDate>Sun, 25 Nov 2012 10:43:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tshikimi</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[movie]]></category>

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		<description><![CDATA[絡まる、ほどける、ひっぱる……そして引き伸ばされ、交差し、株分けされて、また一束の線になる。何の話かというと、これが『新劇場版：Q』だ。本作はそのようなmouvementの変形の軌跡として捉えることができる。「mouvement」とは何かというと、動くものを視て目を瞑ったときに、瞼の裏に残るあの白い線のことだ。本作の物語は一貫した背骨が中心に通っているのではなく、常に過去の描写との範列関係の選択において成立している。本稿では映像の中の被写体の躍動に着目して”ヱヴァQ”を解題していく。 <a href="http://tshikimi.wordpress.com/2012/11/25/evangelion-q-you-can-not-redo/">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a><img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=tshikimi.wordpress.com&#038;blog=43004001&#038;post=33&#038;subd=tshikimi&#038;ref=&#038;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>絡まる、ほどける、ひっぱる……そして引き伸ばされ、交差し、株分けされて、また一束の線になる。何の話かというと、これが『新劇場版：Q』だ。本作はそのようなmouvementの変形の軌跡として捉えることができる。「mouvement」とは何かというと、動くものを視て目を瞑ったときに、瞼の裏に残るあの白い線のことだ。もうご承知のとおり、本作は「ニアサード・インパクト」を経て目を覚ましたシンジが、いきなり理解の及ばない世界に放り出され、自分の見識を頼りに世界の有り様を想像していく物語である。もしあなたがご承知でなかったのであれば、そういうものとして捉えてみてほしい。<span style="color:#333333;font-style:normal;line-height:24px;">僕は本作を、そのように理解している。</span>さらに本作の物語は一貫した背骨が中心に通っているのではなく、常に過去の描写との範列関係の選択において成立している。「範列」とは何かというと、一方を選択すると他方が隠れてしまう関係のことだ。菅の椅子に野田が座っているのが『新劇場版：Q』である。耳慣れた表現に直すと、これは通俗的には「隠喩」と呼ばれている。このようなメタフォリカルな断片のつぎはぎがセルフパロディの身振りを規定し、同時にその徹底された形式性が一貫した意味の成立を困難としている。もとより「答え」は存在しない。それゆえに解釈はthématiqueに施すより、シンジのみるイメージに着目する印象批評が望ましい。同様にmouvementというより「ムーブメント」の語彙のほうが馴染みやすいし、難しい批評よりもわかりやすい感想文のほうがよい。さしあたってよりよい洞察をめぐらせるべく、スクリーンの前で目を瞑りながらヱヴァを語ることにしよう。</p>
<h2>1.　絡まる</h2>
<p>被写体が円の軌道を描いて大回りしながら、その中心線を軸にドリルのように回転する映像が印象的なのがアバンだ。待機画面から作戦行動へと移行し、ブースタ・ユニットを次々とjettison（これが言いたかった）して目標高度に到達し、目標を回収するまでの流れはまぁみていればわかる。しかし逆の言い方をすればそれ以外は全くといってわからないと言っていい。おそらく『新劇場版：破』の最後で初号機のエントリープラグが大気圏外へと飛ばされて、それを拾いにいったのであろうと察することのできるのはヴィレの体制や行動目的の情報が小出しに開示されていくもっと後の話で、ここで気が回るのは余程のマニアくらいしかいない。それにわれわれは『巨神兵東京に現る』を観たすぐ後で少し頭が混乱しているのだ。したがって、それらを捨象したごく現実的な情報、例えばここは大気圏外の宇宙空間で、その中で飛行物体が（始点と終点とが重なる）円の軌道を描いて――でなければ物体はあらぬ方向に飛び去ってしまう――飛んでいることは強く印象に残る。その中で飛行物体から飛び出した紐はいびつに絡まり合い、ただただ混乱した筋の混線を印象づけている。「なんとかしなさいよ、バカシンジ！」でシンジが本当になんとかしてしまうのが次のムーブメントの変形だ。</p>
<h2>2.　ほどける</h2>
<p>閃光が<span style="color:#333333;font-style:normal;line-height:24px;">円状にぐるぐる絡まった帯を</span>八つ裂きに切り裂いて、ばらばらの破片にしてほどいてしまうのはなんとも鮮烈な光景である。重要なのは「どのように」なされたのかではなく、シンジの行為として理解されることだ。「なんとかしなさいよ、バカシンジ！」に先の映像がモンタージュされることで、それはシンジの行為と同一視され、円のムーブメントの切断に「絡まった糸をほどくシンジ」の印象が重なる。この連想の重なりは、のちのち「円状のムーブメント」自体にもある印象を付加することになる（前作でそれはまさしく天使の輪および「サード・インパクト」の脅威そのものだった）。それだけ伝わればアバンのシーンは充分ということなのだろう。大気圏の突入から流れ星の軌跡が象徴する下降ムーブメントに支えられて<span style="color:#333333;font-style:normal;line-height:24px;">物語は</span>いよいよシンジが目をひらく本編へと突入する。</p>
<h2>3.　ひっぱる</h2>
<p>何も全てを記述しようという意図はない。なので要領よくシーンを飛ばしていこう。次に僕が目を惹かれたのは、新しい脅威・ネーメジスシリーズと闘うヴィレの戦艦・ヴンダーのシークエンスである。ここでもう一度目をつぶろう。あなたの瞼の裏にはまだあのばらばらになった紐の破片が宙に浮かんでいる。まるでその一つ一つが姿を変えてヴンダーに襲い掛かってくるように見えはしないだろうか。それをヴンダーは水面を「割って」上昇軌道に入り、船体の遥か下方で振り子のように回転させながら討つ。この動きはヴィレの「抵抗運動」をもっとも象徴的に表している。サード・インパクトにおいてあの忌々しい天使の輪はどの被写体よりも空間の上部に位置していた。それに対してヴィレは、ヴンダーの船体をその上方にもってくることで「境界面」を打ち破り、あの円環を「ひっぱる」ことで、船体のはるか下方の空間で回転のムーブメントを自壊へと導くのである。このように、ヴィレの船員の意思は物語の下降ムーブメントに抗うような上昇ムーブメントで印象づけられている。</p>
<h2>4.　引き伸ばす</h2>
<p>ここが本作でもっとも重要な変形だ。円を描いていた帯が切断され、ぎゅっと引き伸ばされるとどうなるか。答えは水平に伸びて、線の一つ一つは平行になる。それを基礎づけるキーヴィジュアルが、あのピアノの弦だ。ヴンダーの船内では常に画面下手側に置かれ、上手側のヴィレのメンバーとの間に情報の断絶があったシンジは、かつてのネルフ本部へと進んでいく下降ムーブメントの進行過程で、大きく俯瞰するレイアウトで空間下部、グランドピアノを自由自在にひくカヲルを視認する。シンジの主観ショットとして繋がれるこの映像が重要だ。ある意味映画館の空間の地理性に縛り付けられるわれわれはシンジであり、彼と視座を共有している。シンジと同様、わけのわからぬまま現在の立ち位置まで引っ張られてきたわれわれにとって、このグランドピアノの映像はとても印象に残る。シンジは正体不明の少年への印象を抱いたままゲンドウを前に画面下手側に立たされ、上手側のカヲルを不審に見遣るのだが、次にピアノの連弾で打ち解ける過程でこの位置は入れ替わりの余地をみせていく。そうした場のコンテクストの中で、モンタージュされるハンマーが弦を叩き、楽譜の中の音符が移り変わっていく映像。これはまさにシンジが混沌の中に見出した秩序として理解されても良いだろう。円を描いていた線は切断され、両端が「引き伸ばされ」、いまやピアノの筐体の中で水平に伸びる整序されたピアノ線になっている。特にアップライト・ピアノではなく、コンサートグランド・ピアノであることが重要だ。並行かつ等間隔に並んだダンパーが次々と上下し、無数のハンマーが同時に弦を叩いていく映像は美しくて感動的ですらある。シンジの指がおそるおそる鍵盤を叩くとダンパーが持ち上がってハンマーが弦を叩き、弦の振動はブリッジをつたって響板を共鳴させる。シンジの行動がピンと張った糸の命脈を揺さぶり、同時に平行に並んだ他の糸を共鳴させていく幻想は彼にとってなんとも甘美なイメージだ。それをカヲルと共に遂行するということ……平行に並ぶそれぞれの弦は個々の並行世界に見立てることができるし、これらを同時に共鳴させてカヲルとこの世界を変えていくというヴィジョンはシンジがこの世界の地に足をつけるための重要なイメージとなる。しかしシンジとカヲルが足をつけているのは、ネーメジスシリーズが破砕された際に発していたあの「斜め十字」（使徒の正十字との範列関係にある）が無数に敷き詰められた碁盤目模様の地面なのである。</p>
<p>碁盤目というと、もう一つ重要なモチーフとして将棋盤の盤上の空間がある。いわば、将棋を指す行為もあの「ピアノ線の脈動」の一種である。冬月から将棋に誘われたシンジであったが、対局のシーンは省略され、「三十一手先で君の詰みだ」という冬月のセリフで二人の対局は終了する。しかし僕の印象によると、このセリフはどうも先のコンテクストに掛かっているように感じられる。それはシンジが彼の見立てにおいて「読み負ける」という痛烈な指摘である。実際のところ、ピアノ線のイメージからどこまで連想を重ねても、受け手の視座からはそうみえるというだけの話で、シンジ自身がどこまで考えているのかは誰にもわからない。それは作中の人物――特に冬月――にとっても同様である。しかし、将棋というルール化された「読み」の競り合いでは、そのルールの範疇である程度、シンジの「読みの程度」を推定することは可能だ。そこでそのルールの内訳なのだが、僕は将棋のゲームの進め方にあの平行なピアノ線に通ずるものを連想している。ゲームの開始では無数の選択肢が用意されており、それゆえに定石を頼りにお互い線を乗り換えていくのであるが、熟練者は相手にみえている線と同じものを推論を重ねて「視る」ことで、どの線に乗り換えるのか予測することができる。ゲームも終盤に差し掛かると選択できる乗り換え可能な線の数は減少していき、やがて線の終点に行き着いてしまうのが「詰み」だ。しかし熟練者は今いる地点から類推して別の線上に存在するその終点を具体的に知覚することができる。通常それは負けを理解した指し手が投了を宣言するタイミングが早ければ早いほど美徳とされるが、冬月のように相手の負けを指摘するような局面も、このようなコンテクスト下であれば、本筋と結びつけて意味を解釈することが可能となるだろう。対局の場面がカットされているのも至極単純な理由で、この映画の本編こそがシンジにとっての対局そのものだからだ。シンジの負けを指摘した冬月は彼に「将棋崩し」を提案する。ルールの変更もまたRedoの実践の一種である。しかしカメラに映された盤上にある光景は、シンジの陣にぐちゃぐちゃに山積みになった駒に、冬月の陣の綺麗に横一列に伸びた歩が槍先を突きつけているような場面である。冬月の陣は将棋崩しではなく将棋のルールのままであり、盤上で定義されているルールはもとより一つしかないのだ。緊張に包まれた盤の上で、シンジは自らの立ち位置を規定することができないでいる。</p>
<h2>5.　交差</h2>
<p>次は「二人で乗るEVA」のコクピット画面である。大人たちから常に情報を秘匿され続けてきたシンジに冬月からもたらされた情報はある意味衝撃的だ。本作の画面には依然として上手と下手の間に緊張があり、スクリーン・ディレクションの文法に沿って読み進めていくと、上手側から下手側への情報統制は、その力関係を持ち越したまま上手側から下手側への強権的な情報開示に読み替えられる。下手側のシンジは、もたらされた情報のあまりの途方も無さに、その意味をよく咀嚼することができないでいる。そのようなシンジの混乱を解消する契機となるのが、カヲルとの関係における上手・下手の位置取りだ。これはTVシリーズ第弐拾四話「最後のシ者」と比較すると面白い。もちろん劇場の中でいきなりこれを脳内に浮かべるのは困難であるから、ここでは比較考察は省略して『新劇場版：Q』の事象のみを追っていく。結論を述べると、上手側のカヲルから下手側のシンジへの位置取りは、ある時点を境に上手側のシンジから下手側のカヲルへのやり取りに固定される。この「交差」および入れ替え動作のムーブメントが旧作との差異だ。特に本作ではシンジからカヲルへの好意がこの流れに沿って最後まで一貫される。はじめにカヲルが上手側に立つのは、シンジと打ち解けるためのカヲルからのアプローチに関する文脈なのである。シンジとカヲルの友好的なふれあいと連動して、本作のストーリーラインは下降ムーブメントに乗って過去の選択に対して回避的に再選択しながら進行する。セントラル・ドグマに向かって降り進んでいくのはカヲルの侵攻を食い止めるのではなく、世界の再創造のための選択であり、シンジの乗っているEVAは一人ではなく、二人で乗るEVAだ。さらに二人を阻んでいるのは初号機の腕の長さではなく、透明な仕切りであり、目的となるのはセントラル・ドグマのリリスではなく、その死骸に突き刺さった二対の槍を抜くことだ。彼らはそれを遂行するために、降り進んでいく。そんな二人を乗せたEVA13号機のコクピット画面内を注意深くみると、二人の座席からのびる平行に整列した帯の線が、中心で交差していることが窺える。ピアノ線のイメージは決して使い捨てのモチーフではなく、二人の脈動させる線の交差として象徴的に表現されるのである。</p>
<h2>6.　株分け</h2>
<p>上で示した交差が解かれ、一つに束ねられた帯が「株分け」されるのが、シンジがカヲルのコントロールを遮断した後の描写である。交差していた線の先は、コクピットにお互いの寄り付く形で交差が解かれ、別々の方向へと向いている。このことからも読み取れるように、やはり線の交差はシンジとカヲルの「連弾」のヴィジョンと少なからず関係していたようである。その結果、シンジは透明な仕切りにしがみつきながら、自らの選択が引き起こした惨状に崩れ落ちることになる。このときEVAのエントリープラグの外で起こっている事象が、あの回転ムーブメントの復活、フォース・インパクトの前兆なのである。そこには整序された平行線の秩序ではなく、始点と終点の直結した輪の中の混沌がある。</p>
<h2>7.　一束の線</h2>
<p>最後は射出されたエントリープラグからシンジを引っ張りだすアスカのシーンだ。思うに、DSSチョーカーをカヲルに引き受けて貰った際に、シンジは贖罪の機会を奪われてしまったのだと感じられる。それはニアサード・インパクトを引き起こしたことに対する贖罪の機会ではなく、自分の選択に対して責任を負う機会だ。それゆえにあのシーンには痛ましさを感ぜざるを得ない。そんな局面もアスカからみるとまた違ったものにみえたりするのだろうか。ともあれ、アスカはそんなシンジを解放してはくれない。自分でエントリープラグから外へ出ていた綾波を引き連れ、アスカとシンジと綾波は3本の線を交錯させながら「一束の線」となった足あとを砂地に刻んでいく。このように、様々に変形を遂げたムーブメントの線は、3人の足跡の軌跡に象徴的に収束していくのだ。そろそろ結論へと移ろう。</p>
<h2>結論</h2>
<p>絡まる、ほどける、ひっぱる……そして引き伸ばされ、交差し、株分けされて、また一束の線になる……これが本作における中心的なムーブメントの変形の概要であることは冒頭で述べた。それに対して動きの形象の変形がもたらす印象と、その変化を、7つのパートにわけて個人的な印象を交えながら示させて貰った。このような変形をもたらした『新劇場版：Q』とは一体何だったのかというと、それは1本の線として硬直した「旧エヴァのストーリーライン」の目まぐるしい変形の軌跡なのである。ところで西洋には「パランプセスト」と呼ばれる羊皮紙がある。昔は紙が高価で、一度書かれた文字を削ってその上にまた別の文字を書き記したそうだ。しかし、そこには削られた古い文字の痕跡を透かし読むことができる。そのような、一度書かれたものの上にまた別の文字が重ね書きされた羊皮紙がパランプセストだ。本作において、新しい文字は先に記した目まぐるしい変形を経た線として描かれている。どのような選択的行為があったにしろ、一つの物語としてみえてくるのは最終的には一本の線である。その一回性を打ち砕くということ……。それゆえのRedoであり、差異ある反復の物語なのである。同じ時間軸を繰り返すことによってのみ、オリジナルに対して並行するパラレルな線をひくことができる。「見知らぬ、天井」にリフレインするのは見知らぬ顔をもったかつての知人たちの顔であり、綾波が住んでいるのはコンクリートの打ちっぱなしの公団住宅の一室ではなく、自身のコピーが沢山集積されたフロアの上に立てられた天井のないプレハブである。同様にゲンドウの目的は先行されたゼーレに対して反抗的に遂行されるのではなくゼーレの意思に追従的に遂行され、綾波をエントリープラグが救い出すシンジの行動はシンジをエントリープラグから引っ張り出すアスカの絵図に置き換えられる。このように、様々な弁別単位において範列関係にある対象が意識的に選択された脈略無き「つぎはぎ」が『Q』であり、その余剰が円環の輪からはみ出した「～＝ひげ」である。これらの描写は「過去の選択との差異」によってのみ、必然性を規定されるといってよいだろう。そうした本作を彩る「第九」の調べの最終章が、次作の「終止線」である。『<span style="color:#333333;font-style:normal;line-height:24px;">シン・エヴェンゲリオン劇場版:||』――</span>なるほど、平行なピアノ線のイメージと重ねられた楽譜の推移を止められるのは確かにこの終止線記号のみだ。そしてこの終止線は直立するロンギヌスの槍とカシウスの槍なのかもしれない。そんな謎掛けに対する推理を巡らせながら『Q』という棋譜をわれわれもまた反復的に見直すことで、シンジの立つ運命線上の終点へと思いを馳せることとしたい。</p>
<br />カテゴリー:<a href='http://tshikimi.wordpress.com/category/criticism/'>criticism</a>, <a href='http://tshikimi.wordpress.com/category/movie/'>movie</a>  <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=tshikimi.wordpress.com&#038;blog=43004001&#038;post=33&#038;subd=tshikimi&#038;ref=&#038;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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		<title>スピーカーの話</title>
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		<pubDate>Fri, 23 Nov 2012 09:43:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tshikimi</dc:creator>
				<category><![CDATA[column]]></category>

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		<description><![CDATA[最近僕はスピーカーを自作することにハマっている。スピーカーの自作というと怪訝な顔 &#8230; <a href="http://tshikimi.wordpress.com/2012/11/23/%e3%82%b9%e3%83%94%e3%83%bc%e3%82%ab%e3%83%bc%e3%81%ae%e8%a9%b1/">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a><img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=tshikimi.wordpress.com&#038;blog=43004001&#038;post=26&#038;subd=tshikimi&#038;ref=&#038;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>最近僕はスピーカーを自作することにハマっている。スピーカーの自作というと怪訝な顔をされるかもしれないが、「自作スピーカー」と聞いてニヤニヤするのはおそらく今はもう50～60歳くらいの世代であろう。その昔「長岡式自作スピーカー」という触れ込みでオーディオライターの長岡鉄男氏に端を発した自作スピーカーブームがオーディオ界隈で一世を風靡したようだ。それについて多くはしらないのだが、どういうわけか「長岡鉄男」の名前をもはや退潮した過去の流行の中から掘り起こしてきて、長岡氏の残した図面（その多くは既に絶版になっている）や基礎理論を基に、奥深い自作スピーカーの世界へと僕を引き込むこととなった元凶の友人が身近にいたのであった。</p>
<p>こういうものもいわゆる文化資本の一種なのだと思い知らされる。彼の実家にはアトリエがあり、比較的早い段階で木工工作に集中できる環境があったそうで、同時にDIYオーディオの世界に触れることのできる体制が整っていたようである。お互い下宿生ということもあり、彼の自室にお邪魔させて貰った際に、「これが大学生の聴く音の水準なのか！」と非常に驚嘆させられたものだ。そんな「自作スピーカー」との運命的な邂逅から、縁あってぼく自身も友人の助力を得ながらひとまず最初の一組を制作できる機会に恵まれたので簡単に覚書を書き記しておきたい。</p>
<p>スピーカーにもいろいろな駆動方式があるが、バスレフレックスといういわゆる「バスレフ型」であれば比較的簡単に自作することができる。まずスピーカーには音を鳴らすユニットがあり、これを包む箱を一般的に「エンクロージャ」（またはキャビネットなど）と呼ぶということを明記しておきたい。ユニットは目で見てもわかるように振動板から音を発するのであるが、振動板の裏面からも逆相で放出されており、特に指向性の低い低音域の音波はそのままだと正相と逆相がぶつかり合って相殺されてしまう。これが一般的にエンクロージャが必要とされるゆえんである。中でもバスレフ型エンクロージャは振動板の背面から放出される音を箱の中に閉じ込めるだけのシンプルな構造なのであるが、このままだと低音域が伸び悩むので穴を開けてダクトを設置し、これを共振させることで、エンクロージャの中の空気を活用してダクト内部の空気を空気バネの要領で押し出して、低音を放出する駆動方式である。一般的に振動板の振幅は数mmだと言われているが、ダクト内部の空気はそれよりも大きく動くことができる。前者は少ない振幅で空気を振動させるためにより広い振動板面積を必要とする傾向があるが、後者は大きな振幅で空気を振動させることができるので前者に対して小さな口径で事足りる、というわけである。これらの最適なパラメータを計算で算出するのがスピーカー設計のいろはなのであるが、ここでは理論面の話は割愛する。それよりも、市販品のスピーカーを選ぶ際にも応用の利く話を中心に具体的に書いていきたい。ユニットは大きいほうが良いのか、数が多いほうが良いのか、あるいはエンクロージャの形状はどういったものが良いか、という類の話だ。</p>
<p>大型家電量販店のオーディオコーナーを実地で見てまわって感じるのは、一般消費者向けに展開されている製品の多くは1～10万円までの価格帯に収まっており、コンポのセット売りといった形態が中心でスピーカー単体での販売は少ないということだ。スピーカーの駆動にはプレイヤーなどの入力機器の他に最低でもプリメイン・アンプなどのアナログアンプや、あるいはデジタルアンプが必要となるのだが、そういうものもコンポであれば一式まとめてワンパッケージで提供することができる。それで肝心のこの価格帯に採用されているスピーカーの形式なのだが、端的にいってどう頑張っても性能の上限を感じ取ってしまう。それも聴感上有意に感じ取ることができるレベルでの限界だ。それは後述するとして、一通り問いに対する答えを列挙していこう。まず、ユニットが大きいほうがよいのか、という問いだがこれは一般的には大きなほうが良い。振動板面積が広い分、低音域でのユニットの「空振り現象」（振動面が空気を押そうとしても、左右に逃げていってしまい空気を振動させることのできない現象）を防ぐことができるからだ（ホーンを取り付けることで空振りを防ぐものをあるが一般的ではないのでここでは割愛する）。そのかわり口径の大きなユニットは高音域の再生を苦手としやすい。そこでトゥイーターと呼ばれる高音域専用のユニットを内部の「ネットワーク」と呼ばれるフィルター回路で調整して付け加えることで、マルチユニット構成とするのが今のスピーカー市場のメインストリームとなっている。しかし、正直これに賛同することはできない。ここからがスピーカーを自作してみてはじめて実感したことなのだが、充分な設計がなされていれば一台のスピーカーに必要なユニットは、一つで事足りるのである。こういうスピーカーを特に「フルレンジ」と呼称する。逆にユニットが複数台あると音源が分散されてしまい、音像の定位が曖昧になってしまう。さらにユニット間で被った音域は、大きく音を濁らせる原因となるのだが、このためにある内部フィルターは周波数特性のグラフに谷をつくるようにクロスさせるのが定石となっており、質の悪いスピーカーになると再生できる音域に谷ができてしまうのだ。ユニットが5つも6つもついているスピーカーは論外である。ここまでいうとお察しの通り、10万円以下で買えるホームシアターシステムでよくセット販売されている「トールボーイスピーカー」は地雷であると言わざるをえない。それらはハリウッド映画の破砕音を再生するのには秀でているが、とてもじゃないが「聞けた音」ではないのである。そうしたスピーカーはコストカットのために表面が塩ビシート仕上げとなっている例が多く、見た目の上でも判別できるので、あなたがもし購入を検討されているのであれば、選択肢から除外することを強くお勧めする。「ホームシアター」というキャッチコピーは、AV機器と合わせてゴミ同然のスピーカーを複数台合わせてセット販売するための広告戦略なのだ。今述べたスピーカーは話にならないので脇に退けるとして、僕が特に述べたいのは10万円以下の価格帯で売られている2台1組のピュアオーディオ用の「高級」スピーカーである。</p>
<p>結論からいうと、僕はここに自作の優位性を実感している。どういうことかというと、まさにこの価格帯のオーディオ用スピーカーに性能の限界を読み取っているのだ。勘違いして貰いたくないのは、これらは決して悪い製品ではないことである。いわゆるオーディオプロパー向けの「有名」メーカーも多数供給しているし、メーカーのエンジニアはむしろ多数の制約下で精力的に製品開発しているように見受けられる。しかし一番重要なのは「市場のニーズが歪んでいる」ということなのである。端的にいって「フルレンジ」のスピーカーは「地味」で、実際「売れなかった」のだそうだ（記事の出典は失念してしまった）。また自作マニアの中で一部の向きに熱烈な人気を誇っているものに「バックロードホーン」と呼ばれる駆動方式のスピーカーがあるが、これはユニットの大きさに比べてエンクロージャが異様に大きく、ぱっと見の主観でスリムで沢山ユニットの並んでいるスピーカーに比べて「いい音が出そうにない」。もうお分かりの通り、スピーカー市場は「見た目」が「想像上の音」を規定する世界なのである。メーカーのエンジニアはそのしがらみと制約の中で、なんとか現実と折り合いをつけながら「想像上の音」に「現実の音」をすり合わせるべく日夜絶え間ない努力を重ねている。</p>
<p>音を表象する、というのは困難を擁する。それゆえにスピーカーの外見が音を表象する一因となり、「音のよさそうなスピーカー」というイメージが独り歩きする現象がおきているのは興味深い。しかし気障な言い方をするとすれば、「自作スピーカー」をつくるということは、まさしく真実の音と向き合う洞察の作業なのである。</p>
<p>結論をまとめていこう。事実として10万円以下の価格帯のスピーカーは、ブックシェルフ型サイズのバスレフ型スピーカーに落ち着く製品が多い。これを超える規模のスピーカーはコスト的に厳しいものがあるのであろう。しかし的確に設計されたフルレンジのスピーカーは、たとえシンプルなバスレフ型スピーカーであっても、より大きなユニットを、より大きなエンクロージャで、市販のスピーカーシステムよりも廉価に駆動させることができる。フルレンジスピーカーはユニット代さえ実費を支払えば、あとは実質材木の材料費だけで製作できるからだ。そしてここでのスピーカーの規模は、「多数の制約下でプロが知恵を絞って設計した小型スピーカー」に音で優越する。これが実際にスピーカーを自作してみて得た結論である。一般的に音量を上げた際にスピーカーが音割れするのは単にエンクロージャが小さすぎるか剛性不足で、一向に音が定位しないのは音源が分散しているからなのだ。さらに上手く設計されたフルレンジスピーカーはマルチユニットスピーカーよりも広いダイナミックレンジを実現することができる。</p>
<p>それ以上の価格帯のプロパー向け高級マルチユニットスピーカーはまた別の設計思想があるように見受けられるのでここでは多くは触れない。充分な予算があれば、一つのユニットで一番綺麗に再生できる音域のみを再生させ、それをコラージュしていく設計思想になるのだと思う。そうしたスピーカーはどの音域を再生させても音のひずみがなく、どこまでも余力を残したまま再生し切る素晴らしい持ち味を感じさせるのだが、そうしたスピーカーはセットで50万円を超えるような代物で、アンプもそれなりのものを用意しなければならず、大学生の僕にはとても手に負えたものではない。しかし自作スピーカーであれば、アンプも含めてわずか10万円以下の予算で「そこそこの音質」が実現できるので、これ以上なくコストパフォーマンスが良いのだ。自作にも自作の沼があるのだが、それにはおいおい触れていくとして、今はこのあたりの水準で充分満足できている。やはりよい再生環境を手に入れるといろいろな音楽が聴きたくなるものだ。最近はクラシックにはまってしまい、特にブラームスの交響曲がお気に入りである。<span style="color:#333333;font-style:normal;line-height:24px;">ザンデルリンク指揮の、シュターツカペレ・ドレスデン</span>のゆったりとした威風堂々の演奏を聴いていると、どうしても秋の季節の移ろいを連想してしまう。まるでそこで楽器が演奏されているような音の〈手触り〉は、それを解釈によって何か別の体系の中にずらすことで新たなイメージを誘発し、〈かたち〉を構成する記号系の中で音象徴を弄ぶ知的快感へと転化する。そうしたイメージの形成を喚起する能力が、よいオーディオのもたらす〈音楽〉にはあるのだと思った。</p>
<br />カテゴリー:<a href='http://tshikimi.wordpress.com/category/column/'>column</a>  <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=tshikimi.wordpress.com&#038;blog=43004001&#038;post=26&#038;subd=tshikimi&#038;ref=&#038;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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